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澤井直人 独占インタビュー

名前澤井 直人
さわい なおと
出身地京都府出身
(地元:滋賀県)
生年月日1990年5月25日
主な担当番組– 世界の何だコレ!?ミステリー
– どうぶつピース
– シブザイル
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

・キスお化け屋敷
・深夜時代のすべらない話の宮川大輔さん
・なかよしビクトリーズさん(元オレンジサンセット)

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?

・人志松本のすべらない話
・ふくらむスクラム(いちばんスクラム)
・M-1グランプリ
・ミスタービーン


深田 アンケートに書いている「キスお化け屋敷」っていうのは何ですか?

澤井 小学校の頃の話なんですが…。これが、企画!?というものを最初に考えた原体験なんですよ。

深田 なんか面白そうですね(笑)ちなみに澤井さんはどんな小学生だったんですか?

澤井 自分で言うのも何ですが…小学生の頃は、クラスメイトたちを束ねるのが好きな、いわゆる“明るくて人気者”だったんですよね。面白いかどうかは別として…(笑)

深田 へぇ~。放送作家になる人の中では珍しいような気がします(笑)

澤井 そんなこともあって学校終わりはいつも友達が僕の家に遊びに来ていたんですけど、ある時期から飽きてみんな来なくなってきていたんです。それで友達を呼び戻すためになんか面白いことをやりたいなと思っていたんですけど、そこで考えたのがお化け屋敷で。手作りのお化け屋敷を作って遊んでいたんです。

深田 そこまでは小学生っぽくていいですね(笑)

澤井 そのお化け屋敷のことを学校でクラスメイトの女子に話したら「私も混ぜて欲しい」と言ってきました。でも、その女の子は少女漫画がすごい好きで、キスへの憧れを強く持っていた女の子だったんですよ。

深田 ほぉ(笑)

澤井 それを聞いてお化け屋敷のゴールにその女の子が待っていて、ゴールしたらその子がキスしてくれる「キスお化け屋敷」っていうのを考えたんです(笑)

深田 もうちょい詳しくシステムを聞いていいですか?(笑)

澤井 男子がお化け屋敷に入る時は目隠しをして手を後ろで縛った状態で進むんです。ゴールには灯りがあって、その光に向かって進むんです。それでゴールしたら女の子が唇にキスしてくれるんですよ。だから、男子はキスしてくれたのが誰か全く分からないんです。もっと言えば、今も当時の友達はキスしてたのが誰か知らないんですよ。その女の子は別に隠して欲しいって思ってなかったんですけど、僕はその子のプライバシーを守ってあげようと思って一切誰にも言ってないので。

深田 そこはちゃんとしてますね(笑)

澤井 その「キスお化け屋敷」が一大ブームになって、同い年だけじゃなく先輩もうちに遊びに来てくれるようになったりしてすごく嬉しかったんですよ。僕の人生において人を楽しませるという成功体験を初めてしたのが「キスお化け屋敷」だったんです。

深田 面白いですね。なかなか切れ味鋭い話だと思います。それで具体的に放送作家を目指したきっかけは?

澤井 僕の通っていた高校が京都にある進学校で、みんな東大・京大・早稲田・慶応とかを目指すような感じで、僕も早稲田を目指してたんですよ。でも現役では合格できなくて、特に何がしたいとかもないまま、浪人することにしたんですね。その浪人時代にテレビで見たのが「ふくらむスクラム!!」という番組で。

深田 あ~、分かります。フジテレビでめちゃイケ、はねるのトびらを生んだ「新しい波シリーズ」から派生した番組ですね。前田敦子さん、かまいたちさん、ニッチェさんが出ていた。

澤井 そうです。僕が見た時にやっていた企画が、芸人さんがふんどしに火をつけて、火がお尻に到達するギリギリまで粘って海に飛び込んで火を消す企画だったんです。そこで、オレンジサンセットというコンビの岡田さんがギリギリまで我慢しすぎて火だるまになってたんですよ。それを見て腹ちぎれるくらい爆笑しました。後で調べてみたらその岡田さんが僕と同い年だったんです。自分と同い年の人がテレビでそんな面白いことをやっているのが凄くカッコよくて!それで僕もお笑いの道に行きたいなと思ったんです。

深田 それもまた面白いきっかけですね。「お笑いの道」っていうのは最初は芸人を目指したんですか?

澤井 最初から放送作家にはなりたかったんですけど、まずは大阪のNSCに入ったんです。鈴木おさむさんが放送作家をやる前に芸人の気持ちを分かるために芸人として舞台に出てた、みたいな話を知って、僕もまず芸人を経験してみようと思って。

深田 なんか取る行動がいちいち面白いですね(笑)NSCの何期生ですか?

澤井 大阪NSC35期です。同期はゆりやん、ガンバレルーヤ、かが屋の加賀君、からし蓮根、ラニーノーズとかがいました。

深田 お~、豊作の年ですね。ちなみにその年はゆりやんが主席で卒業しているんですよね?NSC時代から面白かったですか?

澤井 そうですね、圧倒的に面白かったですよ。NSCのときってみんな尖っていて、他の芸であまり笑ったりしないんですが、ゆりやんがネタをやるときはみんなかぶりついて見ていましたね!あと、かが屋の加賀くん!NSCって全部で7クラスあったんですけど、たまたま同じクラスで。多分最初の3か月くらいでNSCはやめているんですけど…ネタ見せて1人でやっていた“センターマイクさん”ってコントが衝撃的でした。東京に来て、数年後“かが屋”をテレビ見て声を出して驚いたのを覚えています。

深田 NSCを卒業した後は?

澤井 卒業後に上京して最初はヨシモト無限大ホールでバイトしていたんですけど、2か月くらいで辞めまして(笑)その後、オレンジサンセットの岡田さんにTwitterでDMを送ったんです。僕が放送作家を目指した経緯とかも書いて、それで「お話させてください!」ってお願いしたら返事をくれて。それで渋谷のドトールでお茶しましたね。その出会いからは…岡田さんとは毎日のように新宿で会ってネタの話や、お笑いの話を朝から夜までしていましたね。話したりず…バイトも一緒のラーメン屋で働いていました。タイミングもよく、オレンジサンセットさんが主催の新宿バティオスでやる若手芸人のお笑いライブのお手伝いをさせてもらうようになったんです。そこで色々な芸人さんと一緒にコーナーとか考えたり、ライブ終わった後に皆でお笑いの話しながら歌舞伎町にある“めだか”って安い居酒屋でライブのことについて話し合ってました。お金はほんとなかったですが、青春でしたね。

深田 行動力も凄いし、ちゃんとそれが実ってますね。そこからどうやってテレビの放送作家をやるようになったんですか?

澤井 それも僕が好きな番組をやっている放送作家の方に何人かDMを送ったんですよ。その中で唯一、丁寧に返信をくれたのが竹村武司さんでした。

深田 優しいな~。

澤井 いきなり、TBSの企画会議に呼んでくださって、そこで企画書のフォーマットを見せて頂いてずっとそれを真似して企画書の練習してましたね。

深田 行動力もすごいし、澤井さんは努力も凄いですよね。企画書もめちゃくちゃ書いてたんでしょ?

澤井 何年か前までは、年間400本ペースで書いてましたね。もう今はそんな数書けませんが…。

深田 テレビ関係の人は分かると思いますが、異常者のレベルですよね(笑)年間400本は一握りの変人しか到達できない領域ですよ。

オグロテツロウ 独占インタビュー

名前オグロテツロウ
出身地東京都出身
生年月日 1980年
主な担当番組– 怒り新党
– TVタックル
–ノンストップ
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

・何を仕事にしようか定まらなかった時に、
 初めて「これを目指したい!」と思えた職業が「放送作家」

・専門学校在学中から作家・リサーチ事務所で働くように。

Q:人生で1番好きだった番組は?

・めちゃ×2イケてるッ!


深田  アンケートに書かれている「何を仕事にしようか定まらなかった時」っていうのは何歳の時の話ですか?

オグロ 18歳頃の浪人時代の話ですね。何かしら目指さないといけない中で、とりあえず、手に職だ!と思って、薬学部志望で浪人していたんですけど、受験勉強が嫌いで嫌いで(笑)。強い意志があったわけでもないので、全然頑張れなかったんですよ。そんな浪人時代、テレビやラジオ番組にハガキを送っていたら、ちょこちょこ採用されることがあって。「これを職業にしたら楽しいだろうな」と思って、薬学部を目指すのを辞めて東放学園に行くことにしたんです。

深田  テレビスタッフを目指す人が通う専門学校ですね。

オグロ そうですね。その東放学園に、放送作家事務所の社長がゲスト講師としてくる授業があって、その事務所が「奇跡体験!アンビリバボー」のリサーチを担当していたので番組で使えそうなネタを調べて持ってたんですよ、講義の後に。そしたら、「目の付け所は悪くない」と言ってもらえて、その事務所にお世話になることになったんです。だから、テレビ業界での最初の仕事は「アンビリ」のリサーチでした。

深田  すごいですね。「アンビリ」のリサーチなんて死ぬほど大変だったでしょ?

オグロ いや~大変でしたね、毎週“奇跡の話”を探して提出する仕事なんで(笑)。僕が参加させてもらった時点で、もう何年もやっている番組だったので、わかりやすい調べ方はもう済んでるわけですよ。時間かけたからといって見つかるわけでもないし、めちゃくちゃ大変でした。でも、今思えばですけど、あの番組が1つ目の仕事でよかったなと思いますね。勉強にもなりましたし、あれよりしんどいと思う仕事はその後あまりないので。今も番組が続いているのがホントスゴイです。

深田  そうですよね。ではリサーチではなく構成で初めて関わった番組って何ですか?

オグロ 初めて台本を書かせてもらったのは「JAM The World」というラジオ番組のコーナーですね。テレビに関しては…あまりちゃんと覚えてないんですよね(笑)たぶん、通販番組だったような気がします。

深田  ちなみにオグロさんって学生時代はどんなキャラだったんですか?一説によると悪かったという話もありますが(笑)

オグロ それ(北本)かつらさんが言ってるだけですよ(笑)かなりおとなしい部類の人間だったと思います。

深田  オグロさん、穏やかですけど見た目はけっこう怖いし、東京の新宿出身だから「悪かった」って言われても不思議ではないですからね(笑)ちなみにお笑いは好きだったんですか?

オグロ お笑いも好きですよ。高校の時は、ナインティナインの「オールナイトニッポン」にハマってハガキを投稿してました。ナイナイは「とぶくすり」「殿様のフェロモン」くらいからずっと見てますね。他のテレビ番組だと子どもの頃は「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」、その後、「みなさんのおかげです」「ごっつええ感じ」・・といった感じで。

村上卓史 独占インタビュー

名前村上 卓史
むらかみ たかふみ
出身地神奈川県出身
生年月日 1966年9月26日
主な担当番組– ジャンクSPORTS
– 炎の体育会TV
– 元気が出るテレビ
– 学校へ行こう
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

「元気が出るテレビ!!」の放送作家予備校です


深田 テレビ業界ではわりと知られていることですが、村上さんは「元気が出るテレビ!!」の放送作家予備校出身ですよね?

村上 そうです。放送作家予備校の第2期生ですね。

深田 同期にはどんな方がいらっしゃったんですか?

村上 同期に都築(浩)くんとか、おち(まさと)くんがいて、1期上にそーたにさん、田中直人さんといった方々がいました。

深田 すごいメンツですよね。村上さんはテレビで募集を見て応募されたんですか?

村上 実は僕は「元気が出るテレビ!!」を毎週見ていたわけではなかったんですよ。ずっと裏の大河ドラマを見ていたんですけど、20時45分に大河が終わって、ある日、たまたまチャンネルを回した時に「元気が出るテレビ!!」で放送作家予備校の募集告知をやっていたんですよ。元々テレビは好きだったので、面白そうだなと思って応募してみました。

深田 書類で通って、面接に呼ばれたんですか?

村上 そうですね。会場に行ったら100人くらい候補者がいて。僕は状況があまりよく分かってなくて、テレビの仕組みも知らないから「ここで合格すれば日本テレビに入れるのかな?」みたいな感じで思っていました(笑)。

深田 それ、村上さんは何歳の時ですか?

村上 大学2年生の時。

深田 元々テレビ業界志望だったんですか?

村上 テレビが好きだったから「入れたらいいなー」くらいには思っていたけど、テレビって遠い世界の感覚だったから、うっすら思ってた程度ですね。当時は大学で国語の教員免許を取っていて、高校の先生になるつもりでした。

深田 結果、放送作家予備校をきっかけに、ロコモーションという制作会社に所属することになったわけですよね?

村上 「元気が出るテレビ!!」を作っているIVSテレビという制作会社の子会社であるロコモーションに所属することになりました。面接会場にいた100人くらいの中から、15人くらいが採用されて所属することになって。ただ、1年後には半分くらいが辞めちゃいましたけど。

深田 辞めた人は自分の才能に限界を感じてなのか?体力的にきつかったのか?どっちですか?

村上 どっちもあると思うけど、精神的にきつかったってのが大きいかな。才能という意味では、僕も「えらい場所に来ちゃったな」とは思った。そーたにさんのネタの面白さとかを目の当たりにして「間違えてジャイアンツに入っちゃった」って思ったから(笑)

深田 周りの人たちを見て、みんな凄いなと思いました?

村上 思った(笑)無理だなと思いました。だから自分に何が出来るかって考えたときに早い段階で「スポーツ」という、自分の得意ジャンルを見つけられてよかったな、と。

深田 そーたにさん、田中直人さん、おちまさとさん、都築浩さんって、同世代にすごいメンバーが揃っていますもんね。ロコモーションでいうと下の代には堀江利幸さんもいますよね。それって才能溢れる人たちが集まったのか?テリー伊藤さんを始めとした先輩方のスパルタ教育があったから凄い人たちが育ったのか?どうなんでしょうか?

村上 どうなんだろう…でもやっぱりテリーさんは人を見る目があったんじゃないかなと。もちろん自分のことはそんな風には思っていませんが、それなりの数の中から選ばれた人たちなので、ある程度の才能がある人たちが集まったっていうことはあったのでは。

深田 村上さんが最初に担当した番組は何だったんですか?

村上 僕はロコモーションの親会社のIVSさんが当時制作していた番組の中から「元気が出るテレビ!!」と「ねるとん」に配属されました。

深田 村上さんといえばスポーツのイメージがありますけど、スポーツの番組に関わるようになったきっかけはあるんですか?

村上 日本テレビでやっていた「徳光&所のえらい人グランプリ」というスポーツバラエティ特番ですね。「行列のできる法律相談所」「世界一受けたい授業」の演出をやっている髙橋利之さんと企画から組んで実現した番組。それがきっかけで当時、彼が勤務していたスポーツ局に出入りするようになり、オリンピックとか、プロ野球とか、バレー中継の仕事に関わるようになっていったんですよね。その後、K-1が始まった頃にフジテレビのスポーツ班からお声がけいただいたり、作家仲間の鮫ちゃん(鮫肌文殊氏)の紹介でTBSの「筋肉番付」に入れてもらって、世界陸上や世界バレーもやらせてもらうようになったり、っていう流れですね。

深田 すごい仕事の広がり方ですね。村上さんより上の世代でそういう風にスポーツの番組をたくさん手掛けられている方っていらっしゃったんですか?

村上 スポーツニュースとかにはいたと思うけど、バラエティから来た作家ではあまりいませんでしたね。というのも「珍プレー好プレー」以外で、スポーツバラエティって、それまではほぼなかったので。90年代に我々がスポーツのお仕事をするようになった頃から中継の演出やアスリートのテレビ出演の在り方が少しずつ変わってきて2000年に入って「ジャンクSPORTS」みたいなスポーツ局制作のレギュラー番組が始まって…それがきっかけかどうかは分からないけど、その頃からスポーツバラエティがメジャーになっていった感じだと思います。

深田 今はスポーツ全般に詳しくなられていると思いますけど、元々は何のスポーツが好きだったんですか?

村上 野球とプロレスですね。それがベースです僕は子供の頃から大洋ファンだったから。

深田 あ~、ジャイアンツではないんですね(笑)

村上 神奈川出身だから。あとは大学ラグビーも好きだったし、20歳ぐらいから競馬も好きになったかな。

深田 それらに共通しているものって何なんですかね?

村上 東スポが力を入れているスポーツ()というのはさておき、“ストーリー性”ですね。アングルなんですよ。野球も競馬もプロレスも。1つの勝負の瞬間が面白いというよりも、そこに至るまでのストーリーを知ったうえで見ると何倍も楽しめます。

深田 あ~なるほど。

長崎周成 独占インタビュー

名前長崎 周成
ながさきしゅうせい
出身地兵庫県神戸市東灘区出身
生年月日 1991年6月30日
主な担当番組– フワちゃんTV
– アオハルTV
– ZIP!
– サムライバスターズ
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

100円のラジオを買い、
たまたま聞こえてきた「くりぃむしちゅーのANN」を聞いて。

Q:人生で1番好きだったテレビ

あらびき団、麒麟の部屋、千鳥のぼっけぇTV、横丁へよ〜こちょ、シャバダバの空に、せやねん、トリビアの泉、学校へ行こう、ガキの使い、働くおっさん劇場、全然1番が決め切れません。


深田 アンケートに書いている「100円のラジオを買った」っていうのはいつのお話ですか?

長崎 中学2年の時ですね。ある時、100均で商品を見て回っていたら、ラジオが100円で売っているのに気づいたんですよ。その時の僕のお小遣いが月300円だったんですけど、ラジオとイヤホンと電池の3つを300円で買いまして。早速その日の夜にラジオを聴いてみたんです。そしたらたまま聞こえてきたのが、くりぃむしちゅーさんのオールナイトニッポンだったんです。

 ほぉ。

長崎 親に隠れて布団の中でこっそりゲラゲラ笑ってました。録音して登下校中、何度も何度も繰り返し聴いて。全159回を10周以上聴いてお気に入り回のオープニングトークは自然と口ずさんでいる時もありました(笑)。それでずっと聴いているうちに横で笑っている人がいることに気づいて、それが放送作家の方だったんですね。初めて放送作家という存在を知りました。

深田 僕はそんなにラジオっ子では無いので知らなかったんですけど、ラジオで放送作家の存在を知るって、けっこうあるあるみたいですね。

長崎 きっかけとしては放送作家あるあるなのかもしれませんね。その後、テレビにも放送作家がいるということを知って、漠然と僕も「面白いモノを作る人間になりたい」と思うようになりました。最初から放送作家になりたいと思ったというより、出演者なのか裏方なのかわからないですがとにかく面白いモノを作りたいと思った感じです。

深田 学生時代はコンビを組んで漫才をやってたんですよね?

長崎 はい、なので高校生の時にまず出る側からやってみました。その時の相方はナミダバシの太朗という名前で今は吉本の芸人で頑張ってます。大学の時も別のコンビを組んでいて、テレビ朝日の「学生HEROS!」という番組にも学生芸人として出演させてもらいました。大学の頃、霜降り明星と合同ライブをやっていた時期もありました。

深田 へぇ~、そうなんですね。今から10年くらい前ですよね?霜降り明星はその頃から面白かったですか?

長崎 面白かったです。ワッハ上方という小さい演芸場だったのですが、ウケ過ぎて壁がビリビリと振動していました。

深田 あ~、やっぱりそうなんですね。大学卒業後はプロの芸人は目指さなかったんですか?

長崎 はい、好きではありましたが圧倒的に向いてなかったです。心臓が芸人ではなかったので(笑)。大学卒業後は一度、制作会社にも入ってADも経験したんですが企画を考えている時が1番楽しいと思えたので、自分は放送作家の道を選びました。それでADを辞める前から放送作家としての名刺を作って、ディレクターさんに配っていたら、同世代の日テレの局員さんが特番に呼んでくれて。それが放送作家デビューですね。

深田 ADを辞める前から放送作家の名刺作ったっていうエピソードは、やっぱバイタリティーがあるというか、頭がいい感じしますね(笑)。

酒井 義文 独占インタビュー

名前酒井 義文
さかい よしふみ
出身地岡山県岡山市
生年月日 1974年10月7日
主な担当番組– しくじり先生
– 東北魂TV
– 有田Pおもてなす
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

・僕は元々大阪で芸人(NSC16期)をやってまして、芸人を辞めた頃に
 憧れの先輩だった現ロッチのコカドさんが東京で芸人をやるというので
 「じゃあ僕は作家やります」とほぼ一緒に上京しました。

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?

・ダウンタウンのごっつええ感じ


 酒井さんがNSCに入学されたのはいつなんですか?

 大学3年の時です。僕は岡山出身なんですけど、大阪経済大学に進学したんですね。それで大学3年の時に地元の2個下の後輩に誘われて入りました。ダウンタウンさんに憧れていたっていう、スーパーベタなやつです(笑)

 (笑)大阪NSCの16期って同期には誰がいたんですか?

 現ロッチの中岡君がいました。当時は「3児」というトリオでやっていたんですけど、めちゃくちゃ面白かったんですよ。
   
 そのトリオは中岡さんがネタを考えていたんですか?

 そうです。中岡君はネタを考える能力も凄かったんですよ。のちに1度芸人を辞めてサラリーマンになって、5年のブランクを経て、また芸人を始めるんですけど、その5年でネタが考えられなくなってしまったみたいですけど(笑)当時、僕の相方は3児のネタを見て「これは勝てない」って言って、芸人を辞めちゃいましたからね。

 へぇ~。相方と解散した後は、酒井さんはピンでやられたんですか?

 いえ、地元の同級生を大阪に呼び寄せてコンビを組みました。

 当時、出られていた劇場は?

 2丁目劇場ですね。

 あ~、あの有名な。

 その頃に、今は放送作家をやられている、当時チャイルドマシーンさんとして活躍されてた樅野さんとも出会っているんですよ。当時遊んでもらったり、ネタのダメ出しをしていただいたんですけど、樅野さんは当時の僕を全く覚えていないんですけどね(笑)「お前、大阪時代に俺と遊んでたって、ウソついてるだろ?」って今でも言われますから(笑)後輩の数がめちゃくちゃ多いので仕方ないんですけど。

 樅野さんはどんな先輩でした?

 それはもう憧れの先輩ですよね。僕も若かったんでそれなりには芸人として尖っていたんですけど、それを凌駕するくらいチャイルドマシーンさんは面白かったんで、本当に憧れの存在でしたよ。
   
 酒井さんが芸人を辞めるきっかけは何だったんですか?

 ちょうどbaseヨシモトが出来たくらいの時期ですけど、NSC在学中のキングコングに劇場でボロ負けして、コンビ組み立ての頃のフットボールアワーさんにも圧倒的に負けて。その人たちを見ていたら「絶対に無理だな」と思ったんですよ。

 そこからどうやって放送作家に?

 その頃、ロッチのコカドさんとよく遊ばせてもらっていて、「東京に行って芸人をしようと思う」という話をされた時に、「それなら僕、作家やりますよ」って言ったんです。元々、放送作家という選択肢も頭にはありましたし、コカドさんも憧れの先輩だったので、この人と一緒にいたいという思いもありましたから。

 それで上京して、すぐに放送作家にはなれたんですか?

 いえ、作家になるために色々もがきましたね。この作家名鑑を読ませていただいていますけど、みなさんが作家になるためにやられたこと、僕は全部と言っていいくらいやってるなと思いましたから(笑)深田さんが行っていた日テレ学院という放送作家セミナーも行きましたし、制作会社に入ってリサーチをやっていた時期もありましたし、放送作家の安達元一さんがやられていた安達塾にも行きました。自分の作家人生を初めて振り返って気づいたんですけどめちゃくちゃもがいてますね!(笑)

 それは意外でした。すんなり作家になれたわけじゃなかったんですね。結果的にはどうやって作家になったんですか?

 安達塾に行ってる頃に、僕の恩人の1人の井上淳矢ディレクターに「ミュージックステーション」のリサーチで入れてもらったんですよ。当時、音楽の雑学を紹介するコーナーをやっていたので。

 そこで「Mステ」を担当している樅野さんと久しぶりに再会したってことですよね?

 はい。ただ、さっきも言ったように僕のこと「ごめん、ほんまに知らんわ…」って(笑)でもその直後から、めちゃくちゃ気にかけていただいて一番お世話になっている作家の先輩です。

堀江 B面 独占インタビュー

名前堀江 B面
ほりえびーめん
出身地愛知県名古屋市
生年月日1980年12月14日
主な担当番組 – 笑ってはいけないシリーズ
– ニノさん
– ワラッチャオ!
– フットンダ
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

吉本で芸人をやっていましたが、出るより作るほうが面白いじゃんと
思ってしまったから。

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?

ごっつええ感じ一択です。


 吉本で芸人をやられていたとのことですが、NSCの何期生なんですか?

 東京NSC6期生ですね。とにかく明るい安村が同期です。大阪組だと友近、ムーディー勝山が同期ですね。

 高校を卒業してすぐにNSCに入られたんですか?

 大学に入ったんですけど1年で辞めて、名古屋から東京に出てきて19歳でNSCに入りました。僕の芸人デビューは新宿のルミネtheよしもとのオープンと同じ時期だったんですよ。

 芸人をやってみてどうでした?

 めちゃくちゃ楽しかったですね。元々僕は知的好奇心はある方だと思っているんですけど、お笑いを研究している感じがとても楽しかったんですよね。

 それで芸人を辞めることになったきっかけは?

 自分の中で芸人としての色々な思いがあって、吉本以外の事務所に移籍しようと思ったんですけど、仲が良かった芸人を何人か誘っても、一緒についてきてくれる人が誰もいなくて(笑)それで放送作家という選択肢も浮かんだんですよね。放送作家になったら色んな芸人のネタも考えられるし、さっき「お笑いを研究するのが楽しかった」と言いましたけど、僕は演じるよりも、お笑いを考える方が好きなのかなと思ったんですよ。

 あー、なるほど。

 それで芸人を辞めて、芸人時代から可愛がってもらっていた先輩の、ライセンスさんやトータルテンボスさんの座付き作家を始めて、吉本の劇場周りで色々お仕事をさせてもらって、のちにテレビのお仕事にも呼んでもらうようになりました。

 放送作家として1本目のテレビの仕事は何ですか?

 ココリコの遠藤さんが出演されていた「ラブちぇん」という、名古屋テレビ(メ~テレ)の番組ですね。

 あ~、けっこう話題になった番組ですよね。2組の夫婦が夫婦を交換して生活するっていう。

 そうですね。テレビの仕事も若手の頃から吉本絡みの番組に関わらせていただくことが多かったですね。

佐藤 大地 独占インタビュー

名前佐藤 大地
さとう だいち
出身地新潟県魚沼市
生年月日 1984年4月19日
主な担当番組– おじゃMAP‼
– モニタリング
– ひねくれ3

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

・バンドをやるために新潟から上京後、
 バンドを辞めて放送作家を目指し放送作家スクールへ
・在学中の2006年、アルバイト先でサンドウィッチマンさんの
 当時の所属事務所の方と偶然出会い…
 同時に高校時代の友達が東京の制作会社で働いていて…
 など、時の運と人に恵まれました

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?

・「とんねるずのみなさんのおかげでした」
 両親がとんねるずさんが大好きで、
 子供ながらに、とんねるずさんの予定調和を破壊するパワーに
 ワクワクしていた記憶があります


 大地さんが元バンドマンというのは僕は知っているんですけど、いつからバンドやられていたんですか?

 中学2年の時に地元で日本のパンクバンドブームが起きまして。僕もHi-STANDARD、BRAHMANを筆頭に、当時のパンクカルチャーのバンドマン達の音楽や生き方に、衝撃を受け、憧れて、自分もそうなりたい!と…。

 担当はなんだったんですか?

 ギターですね。

 プロを目指して上京するってことは、けっこうギターの腕前が凄かったってことですか?

 いや、10代の頃なんて技術どうこうというより情熱だけですね。「自分ならいける!」っていう謎の自信とボルテージ(笑)毎年、何万人といるであろう「スターになってやる!」って、何の根拠もない自信だけで上京しちゃった輩の1人です。

 (笑)それで上京してからバンドは何年くらいやってたんですか?

 4~5年やってましたよ。

 そんなに!?思ったより本格的にやってたんですね。地元の友達とバンド組んでたんですか?

 上京してから「BANDやろうぜ」という伝説の雑誌で、メンバー募集してバンドを組んだり、その後、地元時代から一緒にバンドをやっていた友達と組んだり…。一応僕がリーダーで月4~6回ぐらいライブハウスに出て、主催のイベントもやりました。

 へぇ~、凄いですね~。で、なんでバンドを辞めることになったんですか?

 メンバーと喧嘩して僕がバンドを抜けたんです。メンバーの遅刻が許せなくて(笑)「スタジオ借りるお金は、全員で割り勘だから、ひとりが遅刻すると配分が…」って(笑)

 さすが、真面目ですね(笑)

 一旦辞めた時に、自分のバンドに対するモチベーションが中途半端に感じて、このままダラダラ続けても意味がないと。22歳か23歳だったと思いますけど…。あと当時、バンド時代に作った借金が200万ぐらいあって、半泣きでスラムダンク全巻を売り、吉野家で牛丼を食べるような極限状態だったので(笑)何か新しいことに挑戦して死ぬ気で頑張らないとヤバイ!と、放送作家スクールに通い始めたんですよ。

 放送作家スクールってどこのやつですか?

 ワタナベエンターテインメントの放送作家コースですね。

 あー、そうなんですか。アンケートに書いてありますけど、サンドウィッチマンさんの事務所の方と知り合って、ライブとか手伝うようになった感じですか?

 そうです。当時、サンドウィッチマンさんがM-1で優勝する2年前くらいの時期だったかと思います。

 当時はまだ世間的にはそこまで有名ではない芸人さんだったと思いますけど、出会った時に「面白いな」って思いました?

 もちろん、思いました。どこの馬の骨かも分からない僕にも本当に優しく接して頂いて、それでいて圧倒的に面白いという。それはもう心を掴まれますよね。何度か、富澤さんがネタを作る現場に居させてもらったことがあったんですけど、「天才ってこういう人のことを言うんだな」って、衝撃でした。

 お~、やっぱそう思いましたか。

 サンドウィッチマンさんのネタって、小学生の子供からおじいちゃんおばあちゃんまで爆笑するじゃないですか?さらには、僕ら30代の男も腹から笑える。ある一定の世代や性別ではなく、全世代が本気で笑えるネタを生み出し続けるってテレビで言うと視聴率20%の番組を量産しているのと同義で、とてつもない偉業だと思います。その現場で勉強させて頂いた経験は、今でも僕の誇りですね。

 あ~、なるほど。大地さんは放送作家として1本目の番組って何なんですか?

 CSフジでやっていた「お台場お笑い道」という番組ですね。カンニング竹山さん、バナナマンさん、アンタッチャブルさん、アンガールズさんなどが出演者で、制作チームは当時の「とんねるずのみなさんのおかげでした」のスタッフがやっていた、お笑いストロングスタイルの番組で。放送作家も、小川浩之さん、北本かつらさんといったレジェンドの方々がいらっしゃいました。デビュー番組が、超がつくほどのお笑い至上主義の番組で、イイ意味で、こんなにクレイジーな大人の方々が沢山いる職場って最高だなと感じたのと、そこで放送作家という仕事の面白さを痛感できたからこそ、今も続けていられると思います。

 それは豪華な番組ですね。僕のイメージでは、大地さんは「おじゃマップ」育ちという認識があるんですが。

 そうですね、僕の放送作家人生において、とても大きな番組ですね。「おじゃマップ」が生まれる企画会議の段階からその一員として参加させて貰い、香取慎吾さんという国民的スターを座長に、プライム帯で特番をやり、ゴールデンで特番をやり、そして、ゴールデンのレギュラーになるという、あの一連の凄まじい高揚感は今でも忘れられません。

 ゴールデン昇格までたどり着く番組って限られますもんね。

 「おじゃマップ」がゴールデンに昇格する時、PRで渋谷の町を「おじゃマップ」のビジュアルが占拠したんですよ。それを1人で見にいって、大興奮して2時間ぐらい不審者のようにウロウロしましたよね。テレビに関わることの醍醐味と喜びを「おじゃマップ」に教えて貰いましたね。

 ちなみに「おじゃマップ」をやってみての、香取さんってどういう印象ですか?

 僕なんかが印象を語るのもおこがましいですが…あくまで香取さんの1ファンとして思うのは、「初対面の人間の面白さを瞬時に引き出す力」が、天才的だと個人的には思います。

 へぇ~。

 香取さんと一般の方々が触れ合う企画が多かったのですが、香取さんは瞬間的に、その人が持つ人間的魅力をグイっと引き出してくれるんです。絡んだ全ての人を笑顔にさせる、魔法使いみたいでいつも感動させて貰いました。

日髙 大介 独占インタビュー

名前日髙 大介
ひだか だいすけ
出身地宮崎県宮崎市生まれ
静岡県浜松市育ち
生年月日1977年10月28日
主な担当番組 – 高校生クイズ
– クイズ!ヘキサゴンⅡ
– クイズプレゼンバラエティー Qさま!!
– 超逆境クイズバトル!!99人の壁

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

1997年、大学のクイズ研究会の先輩が『高校生クイズ』の問題を
作っているのを見て、
「なんですか?それ?」→「え!?来年やらせてください!!」


 日髙さんといえば「クイズ王」としてメディアに出られることも多く、放送作家としてもクイズ番組に関わることが多いと思いますけど、そもそもクイズに興味を持ったきっかけは?

 「クイズにハマった」「勉強しようと思った」というポイントは14歳なんですけど、小学生の頃から「アメリカ横断ウルトラクイズ」や「高校生クイズ」など、大きい番組は毎年夏や秋になると必ず夢中になって見ていましたね。もっと言えば、物心つく頃にはクイズ番組のセットの電飾の色や、クイズに正解した時のサウンドに反応していたみたいですね。

 へぇ~、クイズ番組の「色」と「音」に惹かれていたんですか。
   
 「クイズ100人に聞きました」「アップダウンクイズ」「スーパーダイスQ」「クイズ・ドレミファドン!」などの番組に反応していたようです。僕自身も覚えていますが。小学1年生の時に、「三枝の国盗りゲーム」で出題された
「Q:ギリシャ文字のアルファベット。最初の文字はアルファ、では最後の文字は?」という問題に、テレビの前で「オメガ!」って答えて正解したのが、人生で最初の「会心の正解」でした(笑)

 すごいですね(笑)それって親の教育があったんですか?

 確かに親もクイズ番組好きだった記憶はあるのですが・・・。僕は宮崎市出身で、よく言われますけど、宮崎市内って民放のチャンネルが2つしか映らないんですね。僕の小さい頃は視聴者参加のクイズ番組がたくさんあって、テレビをつけたら少ない民放の中でクイズ番組が流れていることが多かったんです。それで自然とクイズが好きになっていった感じですね。でも、クイズ番組に限らず、そもそも生粋のテレビっ子なんですよ。

 確かにアンケートを見て、テレビ好きの感じはビシビシ伝わってきました(笑)それで14歳の時に何があったんですか?

 中2の時に「FNS1億2000万人のクイズ王決定戦!」という、逸見政孝さんが司会で、春・秋2回のフジテレビの特番があったんですよ。一般参加の番組だったんですけど、出場するのに年齢制限がなかったんです。その番組で、約1万5千人の中からペーパークイズを勝ち抜いて全国上位100人に残っている人がいて、その人が僕と同い年だったんですよ。それが深澤くんっていう子なんですけど。

 あ!(放送作家の)矢野さんがこのサイトのインタビューで「ほとんど勝てなかった」とおっしゃっていた方ですね!

 そうですそうです!それで「僕も深澤くんみたいにテレビに出たい!」と思って(笑)クイズの勉強を始めたんです。「ウルトラクイズでニューヨークに行きたい」っていうのと「クイズ王決定戦でベスト100に残りたい」っていうモチベーションで、独学でクイズの勉強を始めたんですよ。

 なるほど。当然、高校生のときは「高校生クイズ」には出ました?

 もちろん出ました!3年とも出場しましたし、高2のときは運よく全国大会にも行かせてもらいました。少し遡りますが、「アタック25」中学生大会の予選も受けに行って、静岡予選でペーパーテストをトップ通過したこともあるんですよ。

 お~、さすが。

 それで「アタック25」のオーディションって、ペーパーテストを通過すると集団面接があるんですね。僕も中学2年生にしてはいろいろネタを持っていて、番組スタッフの方に「日高さんはモノマネが得意なんですね?」と振られて。なるほど、こっち方面か、と(笑)「はい!得意です。ものまね四天王では栗田貫一さんが好きです!」なんて言って、当時流行っていたチャゲアスの歌マネをしたんですよ。そしたら、スタッフにも同時に面接を受けている中学生にも、すごくウケたんです。「よかった、これは通ったな」と思っていたら、見事に面接で落ちて(笑)朝日放送からハガキが来て、「あなたは面接で不合格です」なんて書いてあって。結局、中学生大会には出られなかったんですよ。

 あら、なんでですか?

 「なんでだろう? ウケたのになー」とか思いながら、実際に中学生大会のオンエアを見たら、灘中学とか、とにかく真面目そうなメガネの中学生4人が出ていて。「そっちか~!方向性を間違えた~」って(笑)「そっちならそっちのキャラもできるのに~」って(笑)僕はモノマネを振られたから、忠実に全力でやっただけなんですけど、まあ、僕みたいなキャラは、求められてなかったんでしょうね。
   
 (笑)ちなみに矢野さんとは学生時代に出会っているんですよね?

 今も続いている「高校生オープン」っていうクイズ大会があるんですけど、高3の時に、その大会の会場で出会いました。僕はテレビに出ていた「深澤くんに会いたいな~」と思って(笑)勇気を出して浜松から単身・東京に出向いたんですけど、その深澤くんたちと仲良さそうにしている、なんだか体が丸い奴がいて、それが「矢野了平」だったんですね。決勝には5人が残れたんですが、その回は5人の中に深澤、矢野、僕の3人が残ったんですよ。

 お~、すごいメンバーですね。その時に優勝したのは誰なんですか?

 その時はぶっちぎりで矢野了平でしたね。その大会、矢野が神がかっていたというか、絶好調だったんですよ。まあ初対面だったので、もともと強い奴だったのか、たまたま調子が良かったのかは知りませんでしたが、いま思い返すとね。その大会の『記録集』が残っていて、最近読み返したんですけど、決勝では1問を除いて全問、矢野か深澤か僕が解答権を得ていました。見事に空気を読んでいなかったです(笑)

 3人の実力が飛び抜けていたんですね。

 どうなんでしょう?まあ3人とも決勝に行ってますから、ある程度はそうかもしれません。

 そこから2人とは仲良くなったんですか?

 どうなんでしょう。おそらくその時はそこまで仲良くなった感じではなかったと思います。とにかく一人ぼっちでした(笑)矢野と深澤の2人は、当時から関東で一緒にクイズをやっていたので、その頃から仲が良かったと思いますけど。僕は浜松から一人で遠征した身でしたので、そんなに2人と話すという感じではなく。僕は浜松で一番強い高校生だと思っていたのに、東京に行ったら自分以上にクイズ強いヤツらがいて、なんだコイツらは? と。でも向こうにしてみたら、浜松から得体の知れないクイズ好きが来た、と気味が悪かったらしいです(笑)

 では、仲良くなられたのは大学時代ですか?

 そうですね。

 ちなみに日髙さんは大学はどこに行かれたんですか?

 一浪して、慶応に入りました。本当は東大を目指していたんですけどね(笑)運が悪くパニック障害という病気になっちゃって、センター試験の本試では試験会場に向かうことができず、追試では1日目の最後、数学の試験中にリタイアしました。だから東大はおろか、国立大が受けられなかったんです。受験勉強は大好きだったんですけどね。

 やっぱり勉強も出来たんですね~。

 僕にとっては勉強もクイズも同じ感覚で、とにかく勉強が楽しかったんですよ。なんなら今でも東大に入りたいと思っていますし。今でもカフェに受験参考書や問題集を持ち込んで、勉強するのが楽しいんですよ(笑)今は数学にハマっていますね。

 やっぱり世の中には変な人がいますね~(笑)それってどういう感覚ですか?覚えることが好きなんですか?それとも「問題が解ける」ということが快感なんですか?

 たぶん、「上達する」というプロセスが好きなんだと思います。

 そうですか~。矢野さんは東洋大学なのでお2人は違う大学に行かれたわけですけど、クイズ研究会の交流で仲良くなったってことですか?

髙 そうですね。
   
 クイズ好きがたくさん集まるクイズ研究会の中でも、矢野さんとは特に気が合ったんですか?

 当時、大学のクイズ研究会周りでは、問題文が長くて答えが難しい、「長文難問」といわれるクイズが流行っていたんですね。ただ、僕と矢野くんは「テレビクイズ」が好きだったんですよ。それで話が合ったのかもしれないですね。

 やっぱりクイズの中でもそういう趣味・嗜好があるんですね。それで「高校生クイズ」の問題を作る仕事を始めたのは、いつなんですか?

 大学2年生の時ですね。当時は「高校生クイズ」の問題を大学のクイズ研究会が作るっていう慣わしみたいなものがあって、1年生の時にそれを聞いて、
クイズ研の代表である先輩に、「来年、僕にもやらせてください!」って直訴しました。その結果、2年生の時から実際にやらせてもらえることになったんです。

 クイズ好きな大学生としてはワクワクする仕事ですよね。

 「好きなクイズを作って、お金まで頂けるの!?」って感じでした。それが1998年のことなんですけど、僕にとってはこの1年が激動の年で。2月に「アタック25」に出場して優勝もできて、3月に「高校生クイズ」の仕事を始めて、8月に「アメリカ横断ウルトラクイズ」が1回だけ復活しまして。矢野くんも僕も出場して、東京ドームで2人とも福留さんの「ニューヨークへ行きたいか―っ!」「オー!」のあの雄叫びに号泣するっていう一幕があったり(笑)

 そりゃ泣きますよね(笑)憧れの番組ですもんね。

 あとは、6月ごろから、ウッチャンナンチャンさん司会の「炎のチャレンジャー」でクイズを作るお仕事もやらせていただいて。僕にとっては激動の1年でしたね。

 それはすごい1年ですね。

 矢野くんがこのサイトのインタビューで、「アタック25」で深澤くんと対戦した話をしていましたけど、それも98年の11月なんですよね。

 へぇ~、すごい。

 高校時代までに培ってきた、クイズに対するパワーや情熱を、一気に放出した一年、という印象がありますね。1998年は。

興津 豪乃 独占インタビュー

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q: 放送作家になったきっかけは?

鮫肌文殊さんに憧れて


田 この「(放送作家の)鮫肌さんに憧れて」っていうのは?

津 順を追って説明しますと、小学校からの親友でサブカルとかテレビに造詣が深い友達がいまして、僕は彼からいろんな影響を受けていたんです。ある時、その友達から「放送作家という職業がある」と聞いて、番組のエンドロールを注目して見るようになって。その頃、「電波少年」が好きだったんですけど、あの番組の作家の方々って特徴のある名前が多かったんですよ。小山薫堂さん、そーたにさん、海老さん、都築さんって。

田 あー、言われてみればそうですね。

津 その中でもひと際目立っていたお名前が「鮫肌文殊」さん。で、さっき言った友達の影響で僕は洋楽も好きだったんですけど、当時、洋楽雑誌をいろいろ漁っている中、鮫肌さんが初期のエルビス・コステロについてのコラムを書いていた雑誌があって、それを読んで「放送作家ってテレビだけじゃなくて音楽について語る仕事もできるんだ!」って思って。さらに当時、電波少年が好だった流れから松村邦洋さんの「オールナイトニッポン」も聞いていたんですけど、松村さんの横で笑っていたのが、番組の構成で入られていた鮫肌さんだったんですよ。

田 はい。

津 そのラジオの中で、鮫肌さんのパンクバンド「捕虜収容所」の曲が流れたことがあって「放送作家はラジオで自分の曲まで流していいのか!?」と驚愕しまして。そんなこんなで、鮫肌さんをきっかけに「放送作家って面白そうだな」と、憧れを募らせていったんです。

田 その後、興津さんは大学時代に放送作家セミナーに行かれてますよね?実は僕、そのセミナーの後輩なんですよ。

津 えっ、そうなんですか!?

田 日テレ学院ですよね?

津 確か、僕が行ってた頃は「日本テレビエンタープライズ」っていう名前だったかと思います。

田 あのセミナーって制作会社の「オフィスぼくら」が主催していて、興津さんの頃はオズマという放送作家事務所とオフィスぼくらが共同でやっていたんですよね?

津 そうですそうです。だから僕は「流れで気づいたら放送作家になってた」っていう人と違って、放送作家になりたくて仕方がなかったタイプです。気づいたら作家になっていた町田さんにイジられるパターンのやつです(笑)

田 セミナーをきっかけにオズマの方から声をかけられて、所属することになったんですか?

津 はい、大学3年の時から放送作家見習いみたいなことを始めて、同期が自分でどんどん仕事を取ってくる中、僕は全然食えなかったので、3~4年ぐらいは事務所に寝泊まりしてましたね。

田 たぶん、そのセミナーって1クラスに40~50人いましたよね?その中から何人がオズマに引っ張られたんですか?

津 僕を含めて3人ですね。

田 あ~、やっぱり凄いですね。その中から選ばれる才能があったってことですよね。

津 いやぁ、自分で生活できるようになるまで、だいぶ時間がかかりましたよ。

田 ちなみに僕は日テレ学院で「月曜から夜更かし」をやっている林田晋一とか、「めちゃイケ」とか「ENGEIグランドスラム」をやっている中藤洋っていう放送作家が同じクラスだったんですよ。

津 えー、クイズ脳ベルSHOWでお馴染みの林田さんも!黄金世代じゃないですか!

田 黄金世代って(笑)オズマといえば中野俊成さんがいらっしゃいましたよね?

津 そうです。中野さんにはその頃からずっとお世話になってますね。今、考えれば、当時は中野さんも30歳くらいの若手なんですけど、貫禄も説得力もめちゃくちゃあったなぁ

田 中野さんってどういう先輩でしたか?

津 中野さんは本当にずっと優しいんですよね。あの穏やかな感じは当時からずっと変わってなくて。仕事もたくさん紹介してもらいましたけど、僕がいくらダメでも怒られた記憶はないですし、「俺の顔に泥を塗るな」みたいなことも絶対言わない人でしたね。ご飯にもよく連れて行ってもらいしましたし、こういうやり方は良くないとか、どういう作家が尊敬すべき人なのかとか、僕が思う放送作家の理想や在り方みたいなものは、中野さんの影響をかなり大きく受けていると思います。

田 事務所に入って、最初は先輩の仕事のネタ出しをしていた感じですか?

津 そうですね。「マジカル頭脳パワー」のクイズを考えたり、「ボキャブラ」のダジャレを考えたりしてました。でもそれは会議にも出ない大勢の若手たちが、紙だけでネタ出しをするレベルの仕事ですけどね。

田 ちゃんと会議に出て、エンドロールにも名前が流れるという意味で、放送作家としての1本目の仕事は?

津 深夜の「ココリコ黄金伝説」ですね。

田 あー、黄金伝説なんですか!?立ち上げからですか?

津 はい、当時はテレビ朝日の平城さんが演出で、台本とかナレーションで実働する若手作家を探していたみたいで、それこそ中野さん経由でオズマに声がかかって、僕が入れていただきました。

田 いざ、番組に入ってみてどうでした?放送作家としてやっていけると思いました?

津 いや~、全然思えなかったです。ネタは通らないし、会議ではしゃべれないし。「作家はしゃべらなきゃダメだよ」ってよく注意されましたね。正直、今でも会議でしゃべるのは苦手ですけど(笑)

田 では、興津さんは放送作家の基礎は、「黄金伝説」で作られた感じですか?

津 そうですね。高須さんと鈴木おさむさんという放送作家界のスーパースターが2人もいましたから。お2人の発想はとても勉強になりましたし、ディレクターさんには台本とかナレーションをよく振ってもらったので、基礎を身に着けることができたのは、あの番組のおかげです。

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