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小林 仁 独占インタビュー

名前小林 仁
こばやし ひとし
出身地京都市
生年月日1971年2月28日
主な担当番組– 明石家電視台
– ごぶごぶ
– あさパラ!
– 真夜中市場
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

▼小学校5年で深夜ラジオを知る「MBSヤングタウン」
▼その頃、漫才ブームが起こる
▼面白いことはしたいけど恥ずかしがり屋だったのでコンビは組まず
    練習に付き合って意見してた(結果、手見せ)
▼ラジオにハマり、ハガキを送りたくなって
 送ったら読まれて幸せな気分を味わう
▼ラジオパーソナリティーに憧れるも、勇気出ず
▼ラジオを聞いている内に「放送作家」の存在を知る
▼中学の時点で「放送作家」になりたくてハガキ職人に

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?

▼オレたちひょうきん族
▼めちゃめちゃイケてるッ
▼鶴瓶・上岡パペポTV


 小学生の頃の漫才ブームっていうのは、やすきよとかツービートが活躍した漫才ブームですよね?

 そうですね。フジテレビで「THE MANZAI」という番組が始まって、全国的に大ブームでしたから、当時、京都で小学生だった私も衝撃を受けましたね。今じゃ伝わらないと思いますが、当時、関西の小学校では友達同士でコンビを組んで、みんなの前で漫才を披露するっていうムーブメントがあったんです。

 それ聞いたことあります。ダウンタウンさんも小学生の頃、それぞれ違う友達とコンビを組んで漫才をやられていたって言いますもんね。

 そうです。僕の通っていた小学校では、土曜のホームルームに漫才を披露する時間があって、そこに向けて1週間かけて放課後に各コンビが漫才を仕上げていってましたね。

 すごい文化ですね(笑)

 アンケートにも書きましたが、当時の僕は恥ずかしがり屋だったので漫才コンビを組めず、でも、面白いことはしたかったので、友達のコンビの漫才を見て「そこはこうした方がいいんちゃう?」とか意見を言ったりしていました。今思えば既に放送作家的なことをやっていました。

 あ~、当時からそういう立ち位置だったんですね。僕も小学生の頃は、行事の出し物で劇とかやる時は、出演はせずに脚本を書いてましたけど、子供の頃からそういう裏方気質みたいなのってありますよね(笑)

 その頃は「放送作家」なんて仕事があることも分かってなかったですけど、ラジオにハマったことをきっかけに“放送作家”という存在を知るんです。「たけしさんの横で笑ってる人がいる。誰やろ?」「嘉門達夫さんの横でツッコんでる人がいる。誰や?」と。当時、中学生でしたが「なりたい職業が見つかった!!!」と興奮しました。

 あ~、僕は世代が違いますけど、高田文夫さんをきっかけに放送作家に憧れた人は多いって聞きますね。

 ラジオをきっかけに知った放送作家に「どうやったらなれるのか?」を日々考え、調べるようになったんですね。その結果、聞いていた「ヤングタウン」というラジオのバイトから、放送作家になっている人が何人かいる!というのを知って「大学生になってヤンタンのバイトをやる!」というのを人生の目標に掲げたんです。

 へぇ~。学生時代から計画的に放送作家を目指した人って珍しい気がしますね。

 それと同時に、ラジオも聴くだけじゃなくて、ハガキを送ってみようと思って、嘉門達夫さんのラジオにネタを書いて送ったんです。そしたら一発目に送ったのがたまたま採用されて。

 お~、すごいですね。

 自分が書いたことが読み上げられてウケた!毎週聞いてた嘉門さんが褒めてくれている!!コレが電波に乗って流れている!!!その全てが嬉しくて、そこから毎週ハガキを送るようになったんですけど、次の週からはなかなか採用されなかったんですね。でも、読まれた快感が凄すぎて諦めきれず、チャレンジしてる内に送るハガキの枚数も最初は2~3枚だったのが20枚とかになって、どうやったら採用されるかとかも研究して、「傾向と対策」も考えるようになったんです。

 例えば、どんな対策をしていたんですか?

 「先週のオープニングトークで話していたこと」にちなんだネタを書くと採用されやすい、とか。他の人より目立つようにクレヨンで書くと採用されやすい、とか。出来るだけ読みやすい字で書く、とか。そんなのですけど。そういうことをやっているとどんどん採用率も上がっていったんです。それが中学・高校の頃ですね。

 中学生ですでにハガキ職人だったんですね(笑)

 そしたらある日、その番組の有名なハガキ職人の方から手紙が来たんです。「嘉門達夫さんがブレーンチームを作ろうとしてるんだけど興味ないですか?」と。その頃、嘉門さんはブレーンを作ろうとしていたらしくて、関西のハガキ職人に声をかけていたそうなんです。僕はその時、高校2年でした。

 それは嬉しいお誘いですよね。

 むちゃくちゃ嬉しかったです!!!「夢だった作家への道が勝手に近づいてきた!」と興奮しましたね。それで、高校も通いながらハガキ職人活動も続けながら、嘉門さんのブレーンチームの1人として嘉門さんから発注が来たら、その都度ネタを提出みたいなのをしていました。その後、1浪して大学に入って念願のヤンタンのバイトを始めるんです。

 計画通りですね。

 いわゆるラジオ番組ADのバイトでしたけど、ディレクターさん達は、僕が作家志望ということは知っていたので「クイズの問題考えて!」とか「新コーナー考えて!」とか、バイトの身でありながら、作家的な仕事も振っていただいたんです。で、もちろん、ずっと聞いてた嘉門さんの曜日にも配属されて、その曜日の作家の東野ひろあきさんにもやっと出会えました。ラジオを聞き始めた小学生の時に嘉門さんの横でツッコんでた「放送作家の存在を知ったきっかけの人」にやっと会えました。

 関西の有名な放送作家の方ですよね。

 そうですね。それでADのバイトを始めてから1年くらい経った時に、僕を含めて作家志望の若手3人で、東野さんの事務所の引っ越しのお手伝いに行ったら、作業が終わった後に東野さんが「みんなにプレゼントがあります」と。それで貰ったのが放送作家の名刺だったんです。要は、東野さんの放送作家事務所に入れていただける、ということだったんですよ。

 あ~、サプライズ的な感じで。

 そこから東野さんが担当する番組に若手として入れてもらえるようになった感じですね。東野さんは大阪ではかなり勢いがある状態でしたから、番組が立ち上がる時に東野さんに声がかかって、東野さんが「ウチの若手作家も何人か入れたいんですけど、どうですか?」という感じで入れていただけることが多かったです。

 それがいくつぐらいの時ですか?

 私が20歳、東野さんは32歳頃だったと思います。

 大学はどうしたんですか?

 大学はヤンタンのバイトやるために入ったようなものだったんで、バイト始めてすぐに、大学1年で辞めたんですよ。勝手に辞めたから親は怒ってましたね。

 本当に放送作家になるためだけに大学に入ったんですね(笑)放送作家デビューと認識されているのは何の番組ですか?

 関西では吉本が劇場を作ると、その劇場で収録する番組が作られるという流れがあったんです。「心斎橋筋2丁目劇場」が出来て「4時ですよ〜だ!」が生まれて成功したからなんですが。その頃は、「うめだ花月」という劇場が新しくなって復活したんです。そのきっかけで出来たのが「テレビのツボ」という深夜の生放送の帯番組なんですけど、超低予算だったので若手作家が集められまして、東野の推しで最若手作家として入れて頂きました。しかも、1曜日につき、作家は1人だったので、いきなり曜日メイン作家(笑)1人立ちの放送作家デビューという意味では「テレビのツボ」になりますね。

 タイミングが良かったんですね(笑)

 それしかないです!(笑)結果、「テレビのツボ」は当時、関西ではかなりのブームになった番組でしたから「深夜番組で面白いことをやったらブームになるんだ!」という体験を出来たのはとても貴重でしたし勉強になりましたね。

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秋元 康 独占インタビュー

名前秋元 康
あきもと やすし
出身地東京都目黒区
生年月日1958年5月2日
主な担当番組– ザ・ベストテン
– オールナイトフジ
– 夕焼けニャンニャン
– とんねるずのみなさんのおかげです。

事前アンケートはお願いせずに全て現場でインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

Q:今まで自分が通した中でベストな企画は?


 この取材にあたって、秋元さんが出された本や、過去に取材を受けた雑誌記事を色々と調べさせていただいたんですけど、今日は出来るだけ他でお話してないことをお聞きしたいので「放送作家になったきっかけ」は割愛させていただきます。色々なところでお話されてるので。

 分かりました。

 まずは、秋元さんは17歳で放送作家を始められていますが、テレビをメインに仕事をされていた時期って、どれくらいの本数をやっている売れっ子作家だったのか?っていうところからお聞きしたいんですが。ピーク時で担当番組は何本ぐらいあったんですか?

 うーん、当時の本数とかをちゃんと覚えてないんですよね。純然たる放送作家としてやっていたのは、17歳から21歳くらいまでですからね。その後はもう歌詞を書いていましたから。

 大ヒットした稲垣潤一さんの『ドラマティック・レイン』の作詞をされたのが、確か24歳の時ですもんね。そして、その翌年には名優・伊武雅刀さんが歌われた『子供達を責めないで』(原曲:サミー・デイヴィスJr.歌唱)で、斬新で強烈な日本語歌詞も書かれていますよね。では質問を変えまして…秋元さんは放送作家としてはどういうタイプだったのでしょうか?例えば、小山薫堂さんは、知的でオシャレな番組を作られているな、とか。三木聡さんは、くだらない細かいお笑いが得意なんだろうな、とか。成功された放送作家の方にはそれぞれの“色”を感じるのですが、ご自分ではどういうタイプだったと思いますか?

 それでいうと「プロデューサータイプ」かもしれないですね。ある程度、仕事を任せてもらえるようになってからは「こういうことがやりたいな」と思ったら、テレビでやるのがいいのか?ラジオでやるのがいいのか?CMでやるのがいいのか?映画でやるのがいいのか?それとも音楽でやるのがいいのか?そういうプロデューサー的な考え方になっていったような気がしますね。

 やはり放送作家としてもプロデューサー脳が強かったんですね。では、アンケートの項目にあるんですが、放送作家としてこれまでテレビ番組で考えた企画の中で「ベストな企画」だと思っているものは何ですか?

 好きだったのは『ねる様の踏み絵』ですね。あまりにくだらない番組でしたからね。

 あ~、『ねる様の踏み絵』ですか。企画者としては、くだらないことがお好きなんですか?

 そうですね。カップルをシャッフルして違うカップルを作るっていう番組なんですけど、僕は好きでしたね。それか、今放送している『青春高校3年C組』です(笑)

 そう言っていただけると、番組に関わらせていただいている僕としても嬉しいです(笑)秋元さんが過去に話された記事の中で「ある程度の年齢になってからは企画の考え方も王道になってきた」ということをおっしゃっていたんですが、若い頃と今では、企画の考え方は全然違いますか?

 放送作家を始めた頃って、深田君もそうだったと思うけど「何が自分の1番の武器か」ってことじゃない?

 はい。

 劇団出身の人であれば、舞台でやっていたお笑いのセンスが武器です、とか。コントが得意です、とか。僕の場合は高校2年で放送作家を始めているので「最年少」ということが武器だったの。当時は、大学生で放送作家っていうのもあまりいなかったから、リスナーや視聴者に年齢が近いということが僕の武器だったからね。会議には企画を判断してくれる大人たちがいたから、僕はわりと無責任に自分が面白いと思う企画を出していたんですよね。それがだんだんと自分が企画を決めなきゃいけない立場になってくると、そうはいかなくなってくるよね。

 やはり責任ある立場になってくると「外してはいけない」という考えも強くなってくるということですよね。テレビの企画だと『ねる様の踏み絵』。では、作詞家として「ベストだと思っている曲」というのはありますか?

 うーん、何だろう。やっぱり世間的に評価していただいているのは、美空ひばりさんの『川の流れのように』かな?でも、放送作家的な発想でいうと好きなのは『なんてったってアイドル』とか、伊武雅刀さんの『子供達を責めないで』とかなんですよね。とんねるずの『雨の西麻布』を作った時も楽しかったし。

 あ~、なるほど。

 作詞をするようになった時も初めは「自分の優位性が何か?」ってことを考えたんですよ。自分は松本隆さんのようにミュージシャンではないし、なかにし礼さんのようにフランス文学を学んだわけではないし。唯一、自分にあるのは“放送作家”ということだったからね。最初は詞を書くというよりも、放送作家として「この人が何を歌ったら面白いかな」という、企画を考えるような感じでしたからね。

 美空ひばりさんの『川の流れのように』は、そういう意味では放送作家的な発想で書いた詞ではない、ということですよね?

 そう、あれは元々シングル用に書いたものではなかったからね。放送作家的なプロデューサーの僕としては「ハハハ」という曲、美空ひばりさんの「ハハハ」という笑い方を書いたものをシングルにしようとしていたんですけど、ひばりさんが「どうしても『川の流れのように』をシングルにしたい」とおっしゃったので、途中でひっくり返ったんですよね。

内村 宏幸 独占インタビュー

名前内村 宏幸
うちむら ひろゆき
出身地熊本県人吉市
生年月日1962年6月22日
主な担当番組– 夢で逢えたら
–  オレたちひょうきん族
–  ダウンタウンのごっつええ感じ
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

デビューまもないウッチャンナンチャンと一緒にネタを作っていて、
彼らがメインでやる深夜番組に作家として入った。

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?

8時だよ!全員集合
ムー一族


 この取材にあたって改めて読ませていただいたんですが、2016年に内村さんが出されている「ひねり出す力」という本に、“放送作家になったきっかけ”は書かれていたので、今回のインタビューでは割愛させていただきますね。取材時間にも限りがありますし、今日は出来るだけ本に書かれていないことをお聞きしたいので。

 わかりました。確かにその辺のことはだいたい本に書きましたからね。要は、放送作家になったのはいとこ(内村光良)のコネです(笑)

 (笑)
「笑いの殿堂」という番組が放送作家デビューなんですよね?

 そうです。フジテレビの深夜番組ですね。

 ですので、まだ「ひねり出す力」を読まれていない方は是非、購入して読んでいただければと(笑)「夢で逢えたら」「ごっつええ感じ」「笑う犬」「サラリーマンNEO」など、伝説の番組のエピソードもたくさん書かれていて、とても面白いですから。テレビ関係者以外が読んでもタメになる本だと思いますし。

 よろしくお願いします(笑)

▲『ひねり出す力 ~“たぶん”役立つサラリーマンLIFE!術~』

谷田 彰吾 独占インタビュー

名前谷田 彰吾
たにだ  しょうご
出身地神奈川県横浜市
生年月日1980年6月3日
主な担当番組– 中田敦彦のYouTube大学
– まふまふの『ひきこもりでも◯◯したい!』
– 青春高校3年C組
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

大学4年で劇団を解散し、これからどうしようという時に、TV業界に進んでいた先輩に勧められ、作家事務所の入所試験を紹介してもらった。

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?

水曜どうでしょう


 大学で演劇をやられていたとのことですが、差し支えなければ、どこの大学に通われてたんですか?

 明治大学です。明治大学って演劇学科もあって、演劇が盛んな大学なんですよ。ぼくは演劇学科ではなかったんですけど。「騒動舎(そうどうしゃ)」っていう演劇サークルに入って、役者としてもやりつつ、脚本を書いたりもしていたんですよ。有名どころだと「ジョビジョバ」がこのサークル出身なんです。

 あ~、そうなんですか。谷田さんがやっていたのはコメディですか?

 そうです、コメディをやってました。で、大学4年の春にジーワンという制作会社で働いていたサークルの先輩から「うちの会社に放送作家部門があるから受けてみないか?」と言われて、試験を受けに行ったんです。

 それまでは放送作家になりたいとは思ってなかったわけですよね?

 そうですね。おもしろいものを作るのは好きでしたが、具体的に放送作家というビジョンがあったわけではないです。でも、放送作家って響きはかっこいいし、めったにいないし、なれるなら面白いかな、目立てるかな、くらいのノリでした(笑)

 試験はどんな内容だったんですか?

 一次と二次があって、一次は時事ニュースの知識テストと作文と面接でした。時事テストは時事ネタをどういう目線で斬るか?とかじゃなくて、単純に知っているかどうか。面接の時に、「君は声がいいからナレーターになった方がいいよ」と言われたので「落ちたな」って思ったんですけど、運良く二次に進むことができて。二次は企画書を書いてプレゼンする試験。こっちはそこそこ手応えありました。無事に合格通知が届いて、それからジーワンで働くことになりました。

 最初はどんな感じで働いていたんですか?リサーチとかネタ出しですか?

 そうです。毎日会社に行って、先輩のやっている番組のお手伝いとか、実際に番組にも入れてもらったりしてました。出勤初日からクイズ作りましたよ。

 放送作家としての1本目の仕事は?

 何を持って放送作家デビューかが難しいですけど、自分の書いた台本がオンエアでちゃんと読まれたってことで言うと、フジテレビの「すぽると」ですね。確か2年目くらいの時に入れてもらった番組です。

 あ~、「すぽると」をやられていたんですね。

 元々は演劇サークルでもコメディをやっていましたし、バラエティ志望でしたけど、放送作家として働き始めてからはスポーツ系の番組をやることが多かったですね。「バースデイ」とか「プロ野球戦力外通告」とか。

 ぼくも一応スポーツキャラを売りにしたいとは思ってる作家なので、谷田さんのやられてる番組は羨ましいやつ多いですね(笑)ちなみに、今は独立されてますけど、独立したタイミングは?

 今39歳なんですけど、34歳くらいの時ですね。

勝木 友香 独占インタビュー

名前勝木 友香
かつき ゆうか
出身地福岡県
生年月日1978年9月11日
主な担当番組– 林修の今でしょ講座
– ホンマでっか!?TV
– 浜ちゃんが
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

モデルとして番組アシスタントガールをしていた時に、
放送作家という職業を知って、「やってみたい!」と口走ったこと。


 勝木さんについて軽くお調べしたんですが、元々モデルをやられていたんですよね?

 そうですね。私、福岡のど田舎出身なんですけど、高校生の時にスカウトされてモデルを始めたんです。

 田舎出身なんですか?見た目では都会っ子感が出てらっしゃいますけど(笑)

 田んぼの真ん中をおさげ髪で歩く女の子でしたよ(笑)自宅の玄関でホタル見たことありますからね。

 へぇ~

 スカウトされて事務所に入り、初めてのオーディションで合格して……ブライダルショーだったんですが軽い気持ちで現場に行ったら「non-no」とか、私が見ていた雑誌に載ってるモデルさんたちがたくさんいて…そりゃあ田舎の女の子は舞い上がっちゃいますよね。私にとってはその方々ですら「スター」って感じでしたけど、そのスターたちが、ある女性が部屋に入ってきた瞬間に息を飲んだんです。それがまだ女優をやられる前の川原亜矢子さんだったんですよ。

 おぉ~。

 当時、ヨーロッパのコレクションとかに出てらして日本人としてはトップオブトップのモデルである川原亜矢子さんを目の当たりにして、その華やかさに憧れちゃって「私、モデルになる!」って言って、東京に出てきちゃいましたね。

 モデルさんの仕事っていうのは雑誌がメインですか?

 雑誌もやりましたし、ショーにも出ましたし、テレビにも出ましたし、色々なジャンルのお仕事をやらせていただきましたね。

 ちなみにどこの事務所ですか?

 オスカーです。

 勝木さん、オスカーだったんですか!?

 なので私、米倉涼子さんと同じクラスでレッスン受けましたよ。腹筋の時に、米倉さんの足をおさえたりして…(笑)

 めちゃくちゃ凄いじゃないですか!放送作家になったきっかけが番組のアシスタントってことですけど、どういった番組でアシスタントをされてたんですか?

 放送作家になったきっかけの番組はまた別なんですけど、有名な番組だと「おしゃれカンケイ」とか「紅白歌合戦」とか。

 おぉ~、すごい。

 アシスタントとしてテレビの現場に出入りするようになってから“放送作家”っていう存在を知ったんですよ。ディレクターさんとかADさんは忙しそうにしてるのに、なんか現場で涼しそうな顔して、それでいてブランドモノのバッグを持ってる、お金持ちそうな人がいるな~って(笑)

 はいはい(笑)

 それで「あの人たちはどういった方なんですか?」って聞いたら、「放送作家」という職業だと。当時の私は「楽そうなのに儲かってそう」って思って、「私も放送作家やってみたいです」って言ったんです。もちろん、放送作家が楽だなんてとんでもない大間違いってことは、仕事を始めてすぐに気づくんですけど(笑)

 まあ、収録現場での放送作家を見たらそう思いますよね(笑)
それが何歳の時ですか?

 たぶん、24歳とかですね。

 何ていう番組でその流れになったんですか?

 NHKでやっていた「ふたりのビッグショー」っていう番組です。その後、放送作家事務所を紹介していただいて、面接に行ったんですけど、私はモデルしかやったことがない世間知らずな女だったんで、ミニスカにロングブーツで行ったんですよ。

 ムカつく女ですね~(笑)

 そしたら「あなたみたいな子が真面目な番組やるのも面白いかもね」って面白がってもらえて、その2週間後には番組の会議に出てましたね。

 モデルを続けながら放送作家を兼業してたんですか?

 そうです。モデルと放送作家の2足のわらじでしばらくはやってました。
   
 放送作家1本になるきっかけはあったんですか?

 モデルの仕事が嫌で「放送作家をやりたい」ってなったわけではなかったので、最初の頃はモデルの撮影がある日に番組の会議が入ったら「なんで撮影の時に会議があるの~(怒)」とか思ってたんですけど、それがある時に逆転した瞬間があったんですよ。「なんで会議ある時に撮影入ってんの~(怒)」って。

 そんな瞬間が来たんですね。

 放送作家としてレギュラーが決まったり、仕事を任されるようになって楽しくなってきてたし、モデルの仕事は嫌いではなかったけど、自分が思い描いていたようなトップモデルという状況でもなかったので、それをきっかけに放送作家1本でやろうってなりましたね。それが放送作家を始めてから2年くらい経った頃ですね。

 勝木さんが放送作家デビューの番組として認識されてるのは、何ですか?

 自分の中では「ちい散歩」ですね。先輩に呼ばれてくっついていってやらせてもらった番組ではなくて、私個人として呼んでいただけた1本目のレギュラー番組が「ちぃ散歩」だったので。

 おぉ~、「ちい散歩」やられてたんですね。

町田 裕章 独占インタビュー

名前町田 裕章
まちだ ひろあき
出身地埼玉県
生年月日 1974年7月25日
主な担当番組 – ロンドンハーツ 
– アメトーーク 
– VS嵐
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

テレビ朝日でバイトしていて、なんとなく。


 テレビ朝日でバイトをしていたのは、大学生の時ですか?

 もう(大学は)辞めてたのかな、ちょっと忘れちゃった。当時、バイトいろいろしてて、知り合いだった業界の方から、テレビ番組のリサーチのバイトがあるからやってみない?と言われて。

 それはなんていう番組ですか?

 ナインティナインさんの「Q99」っていう番組。

 リサーチのバイトから、どうやって放送作家の仕事をするようになったんですか?

 そのリサーチャーの仕事というのが、テレ朝の制作デスクに、週3ぐらい通ってやるみたいな感じだったんだけど、当然、その番組のスタッフの人たちと仲良くなるじゃない?で、仕事はもちろん、仕事終わりで遊び行ったりするようになって、普通に大学の友達とかといるよりも楽しいなって思ってきて。その時のスタッフさんの中に、今でも仕事してるロンハーの加地さんとか朝倉さんとかがいて。最初出会った時はお2人ともADだったかと思います。

 あ~、そこでその人たちと出会ってるんですね。

 で、この辺は曖昧なんだけど、たしか番組が終わることになって、同じスタッフで新しい番組をやるって流れだったと思うんだけど、リサーチャーが必要ない番組内容だったの。それで「じゃあ、作家でもやる?」ってことになって、僕としては「この人たちと居た方が楽しいな」と思ってたから、是非やらせて下さいみたいな感じだったかな、たしか。曖昧ですが。

 それはなんていう番組ですか?

 「ナイナイナ」っていう番組。初めてエンドロールが流れたのがこの番組だと思います。

 あ~、ナイナイナ!町田さんといえばロンハー育ちっていうイメージがあるんですけど、ロンハーが始まったのは作家何年目の時ですか?

 確か2年目ぐらいだったと思う。

 放送作家としてはいつから食えるようになりました?

 それが、そういう流れで今までずっと来てるから、いつから食えるようになったとか考えたことなくって。なんなら今でもプロの作家という意識もあんまりないし(笑)。元々、どうしても作家になりたかったわけじゃなくて、「この人たちといると楽しいな」と思ってやってきただけだから。極端な話、加地さんや朝倉さんが別の仕事、飲食店でもやるってなったら、普通に手伝うと思うし(笑)。この仕事がやりたいというよりも、この人と仕事をしたいっていう気持ちの方が大事ですね今も。

藤原 ちぼり 独占インタビュー

名前藤原 ちぼり
ふじわら ちぼり
出身地岡山県岡山市
生年月日1979年6月17日
主な担当番組– サラリーマンNEO
– となりのシムラ
– 笑アニさまがやってくる
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

・2007年のM-1グランプリ。サンドウィッチマンさんの優勝を見て上京
・内村宏幸さんのコント講座


 藤原さんは大学を卒業してから何年かは、地元の岡山で就職して働いていたんですよね?

 そうです。ホームページを制作する会社に勤めていたんですけど、28歳の時に会社が倒産することになってしまって…サイトの企画をする仕事だったので「何かを企画する仕事が出来ないかな…」と考える中で、放送作家という仕事が選択肢の1つに浮かんだんです。ただ、「この年齢からじゃ遅いよな」とも思って、すぐに放送作家を目指そうとはならなかったんですけど。

 そんな時にM-1のサンドウィッチマンさんの優勝を見たんですね?

 はい、サンドウィッチマンさんの優勝を見て感動して「自分も今からでもやれるんじゃないか?」って勇気を貰って、思い切って放送作家を目指すことにしたんです。

 それで上京したんですか?

 そうですね。

 東京に来てからはまず何をしたんですか?

 ネットで放送作家スクールを探しました。調べたらマセキ芸能社がスクールをやっていたので、電話してみたんです。そしたら、「(作家コースは)今期はやってないです」と言われて。それで他のスクールを探したら、放送作家の内村宏幸さんが、通信で「コント講座」を始めるっていうのが出てて、それでその講座を受けたんです。

 内村宏幸さんっていうのは、コント界の大御所放送作家ですけど、ウッチャンナンチャンの内村光良さんの従兄弟の方ですね。「夢で逢えたら」「ごっつええ感じ」「やるならやらねば」「気分は上々」「内村プロデュース」「笑う犬」「LIFE」「サラリーマンNEO」と、挙げればキリがないほど、数々の人気番組をやられてきた方です。それで内村さんに弟子にとってもらったんですか?

 いえ、その通信講座では特に何もなかったんですけど、講座のおかげでコントの書き方は分かったので、自分でコントを書いて、当時放送していて好きだった「サラリーマンNEO」宛に送ってたんです。そしたら、しばらくして演出の吉田照幸さんから連絡が来たんです。「(コント作家としての)可能性あると思うから一度会ってみますか?」と。

 おぉ~、凄いですね。吉田照幸さんって朝ドラの「あまちゃん」の演出をされてた方ですよね。

 そうです。それでNHKでお会いして、「サラリーマンNEO」に入れていただいたんです。会議は参加せずにコント案だけ出すスタイルでしたけど。

 「サラリーマンNEO」で内村さんにも直接会えたわけですよね?

 はい、コントの収録には行かせてもらっていたので、そこで通信講座を受けていたことをお話させていただきました。その後、内村さんには2010年にあった、「笑う犬」の復活特番に呼んでいただいたり、仕事で色々とお世話になっていますね。

 ちなみに上京する時、すでに今の奥さんと付き合っていたんですよね?「放送作家になりたいから上京する!」って、どんなリアクションでした?

 そりゃあ、ビックリしてましたね。もう29歳になる時でしたから。まず僕が先に上京して、その半年後くらいに奥さんも上京してきました。看護師なんで、東京に来ても仕事はあるだろうと。

 ただただぼくの興味で聞きたいんですけど、どうやって知り合ったんですか?(笑)

 奥さんは同い年なんですけど、お互い25歳の時に、友人の結婚式の2次会で知り合いました。
   
 で、結婚はいつしたんですか?

 30歳の時です。

 藤原さんからプロポーズしたんですか?

 そういうとこまで聞きます(笑)箱根旅行に行った時にしたんですけど…その時は「考えさせて」って断られたんですよ(笑)

 その後の旅行、めちゃくちゃ気まずいっすね(笑)

 そう、箱根からの帰りは気まずかったですよ(笑)まあ、その時は放送作家として食えるか食えないかぐらいの微妙なラインだったんで、迷うのも無理はないんですけど。で、3日後ぐらいに、「OKです」って言ってもらって、結婚することになりました。

 よかったよかった。

白武ときお 独占インタビュー

名前白武 ときお
しらたけ ときお
出身地京都府
生年月日 1990年12月17日
主な担当番組– ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!
 絶対に笑ってはいけないシリーズ
– しもふりチューブ
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

▼小学生3年生のときに、クラスのほとんどの生徒が「学校へ行こう」を見ていて、そこからテレビを熱心に見るようになりました。

▼高校生のときにラジオ番組「放送室」を聞いて、放送作家という職業を知りました。

▼大学生のときに、高須さんのサイト「御影屋」で知ったレジェンド作家・中野俊成さんと鮫肌文殊さんが主催しているレコードをかけるイベントに行きました。そのとき隣の席に酔っ払った樋口卓治さんが座っていて、勇気を出して声をかけたことがきっかけで、放送作家見習い生活が始まりました。

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?

▼ワールドダウンタウン
▼働くおっさん劇場

それまで見ていたテレビ番組と全く違っていて、ダウンタウンさんを掘るようになりました。


 「放送室」っていうのはダウンタウンの松本人志さんと、放送作家の高須光聖さんがパーソナリティを務めていたラジオね。そもそもダウンタウンさんが好きだったの?元々お笑い好きだった?

 ぼくは高校生活があまり楽しくなかったので、高校3年間は「映画」と「お笑い」に捧げたんですよ。ツタヤに通って映画は年間300本、お笑いDVDと海外ドラマも合わせて、年間500枚くらい借りて見ていました。大学2年生まで毎年300枚は見ていましたね。

 すごいな!

 高校1年生のときにテレビの深夜番組を見始めるようになって、「働くおっさん劇場」で松本人志さんを凄く好きになって。それで「放送室」も聴くようになったんです。

 松本さんを好きになったきっかけが「おっさん劇場」って、珍しいかもね(笑)で、放送作家を目指そうと思ったのはいつ?

 大学に入って、新歓コンパとかに行っても「つまんないな~」と思ってた時期に、高須さんがやられていた「御影屋」というサイトを見て、放送作家に興味を持ちまして。
   
 それで中野さんと鮫肌さんのレコードのイベントに行ったんだ?そこは放送作家として潜り込むという打算のもと?

 半分それもありましたけど、単純にイベントへの興味もあって。中野さんと鮫肌さんから何枚もレコードをもらいました。3回くらいイベントに行ったときに、たまたま酔っ払った状態の樋口さんが隣に座られたので、思い切って声をかけたんです。そうしたら「来週、仕事場においで」とお誘いいただいて、1週間後に行ったら「誰だっけ?俺おいでって言った?」って言われて。酔っ払ってて覚えてなかったんですよ(笑)当時、樋口さんは「放送作家部」という部活をやられていて、放送作家志望の若手を集めて企画会議とかをやっていたので、なんとか、その一員に入れていただいたんです。

 そんな部活があったの知らなかった。他にその放送作家部出身の人はいるの?

 何人かいますけど、今でも仲良くしている鈴木遼くんという放送作家は、そこ出身です。

 その放送作家部からどうやって仕事にありついたの?

 当時やっていたオードリー春日さんがMCの「学生HEROES」という番組に、参加させていただくようになりました。エンドロールにも最初から出していただいて、ありがたかったです。

 それ何歳の時?

 21歳ですね。

 デビュー早いな~。おれ25歳で放送作家デビューだからな~。で、そこからは?

 「学生HEROES」で、のちに凄くお世話になる、ディレクターの渡辺資(わたなべたすく)さんに出会って、色々なお仕事に呼んでいただけるようになりました。資さんにはLINE LIVEやAbemaTVの黎明期にたくさん呼んでいただいて、おかげでぼくもネット番組に強くなりました。

 これは放送作家志望の方の参考になるように聞くけど、若手放送作家が何人かいる中から、なんで白武くんだけ可愛がってもらえるようになったの?もちろん、能力という部分はあると思うけど。

 なんでですかね?ぼく、資(たすく)さんがやられている番組が、とてもおしゃれだし面白くて好きだったんです。お会いしたら「あの番組のここが面白かったです」と直接言ったり、メールを送ったりしていたんですけど、ちゃんと見て面白いと思ったってことを伝えていたので、印象が良かったのかもしれません。気に入られようと思ってやったわけじゃないんですけど。

 そこは大事なんだろうな。色んな先輩もおっしゃってたけど、媚びようとして近づいてくる後輩には気づくから。そうじゃないと思っていただけたんだろうね。

植田 靖章 独占インタビュー

名前植田 靖章
うえだ せいしょう
出身地北海道旭川市
生年月日1983年11月27日
主な担当番組– AbemaPrime
世界が驚いたニッポン!
– スゴ〜イデスネ!!視察団
– たけしのニッポンのミカタ!
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

・フラフラしていたとき、ひねりだした“やりたいこと”が構成作家だった。

・ひかり荘というネット配信サービスのスタッフをしていた時、
 出演者として現場に来ていた、勝木友香に挨拶したこと。

・その後、サラリーマンをしながら、勝木の手伝いをしていた時に、
 東日本大震災を経験、「人生なにが起きるかわからない」と思い、
 構成作家の収入だけで、生活をはじめたこと。


 フラフラしてたっていうのは、何歳の頃の話ですか?

 もともと、18歳の時にワーキングホリデーと語学留学で、2年間ロンドンにいました。20歳の時に日本に帰ってきて、神奈川の工場で働いていたんです。その時に「本当に自分がやりたい仕事は何か?」って考えて…それで元々興味があったテレビの仕事が出来ないかなと思って、色々な制作会社の面接に行きました。

 ロンドンに行ったのは、どういう経緯だったんですか?

 抽選でビザが当たったんです。

 抽選ですか?

 現在のことは知りませんが、当時、イギリスのワーホリ1次試験は、
抽選でした。応募ハガキを送って、当選して、朝の8時くらいに、英国大使館から電話が来たんです。「1次試験に合格しました。英国大使館で2次試験の面接を行いますので、いつにしますか?」って。

 それで、ロンドンではどのような生活をしていたんですか?

 働きもしましたが、遊んでもいましたよ。イギリスは、酒もタバコも18歳から法律で大丈夫ですし。本当に、毎日が刺激的でしたよ。当時のイギリスは、今と違って、世界中から人々を受け入れていた寛容な国でした。いろんな国の人間が集まってきて、価値観や考え方、感性もごちゃごちゃになっていて、何でもありな、自由な雰囲気が好きでしたね。

 今につながっていることはありますか?

 多様な価値観を受容できることは、間違いなくその影響です。それと、ニュースで中東情勢や、ヨーロッパなどの国際情勢は、頻繁に特集されていたので、嫌でも知識が身につきました。BBCのテレビ番組もおもしろかったですね。

 それで帰国後、フラフラして、今度はテレビ業界に入ってみようと?

 そうです。それで採用してくれた制作会社でADを始めたんです。当時、ヨシモトが「ひかり荘」というインターネットテレビを、やっていたんですけど、そこでADをやっていた時に、のちの師匠になる勝木と出会ったんですよ。
   
 勝木友香さんですよね?美人放送作家として有名な方ですね。ぼくはお会いしたことないですけど。

 その時に勇気を振り絞って、はじめて挨拶するときに、勝木に「作家になりたいです!」と言ったら、ちょうどアシスタントみたいなのを探していたタイミングだったらしくて、出会った日から、勝木のもとで働かせてもらうことになったんです。

 それですぐにADを辞めたんですか?
 
 ADは辞めましたけど、すぐには生活できないので、その後、運送会社で働きながら、勝木のアシスタントみたいなことをしていたんです。そして、震災をきっかけに本当にやりたいことに集中しようと思って、勝木に「放送作家1本でやりたいです」と伝えました。それを受けて勝木が担当していたBS朝日の「極上空間」という番組に、リサーチとして入れていただきました。

 なるほど。では、構成作家としての初仕事は何ですか?

 今も続いていますけど、テレビ東京の「たけしのニッポンのミカタ」です。今35歳ですけど、「ニッポンのミカタ」に入れていただいたのは、28歳の時ですね。だから放送作家としての歴は全然浅いです。

 勝木さんとは師弟関係なわけですよね?

 そうですね。
   
 どの程度、仕事について教えてもらいました?手取り足取りって感じですか?

 放送作家としてのノウハウは番組に入れてもらって、ディレクターさんとかに教わっていった感じですけど、この業界の基礎的な部分は勝木に色々教わりました。「リサーチで大宅文庫というところに行く」とか。国会図書館とか、女性の本が置いてあるお茶の水図書館とか。

 若手放送作家がリサーチで通うところですね(笑)1~2年目の頃は、ぼくも1日国会図書館で過ごしたりしてました。他に教わったことは?

 あとは「宿題のフォントは丸文字ゴシックで」とかですかね(笑)

 テレビ界全体かどうかは分からないですけど、バラエティの会議ではよく言われているやつですね。「宿題とか台本は丸ゴシックで書くと面白く見える」っていう(笑)「明朝はつまらなく見える」とか言いますけど、ぼくはあんまりピンと来てないんですけどね(笑)