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日髙 大介 独占インタビュー

名前日髙 大介
ひだか だいすけ
出身地宮崎県宮崎市生まれ
静岡県浜松市育ち
生年月日1977年10月28日
主な担当番組 – 高校生クイズ
– クイズ!ヘキサゴンⅡ
– クイズプレゼンバラエティー Qさま!!
– 超逆境クイズバトル!!99人の壁

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

1997年、大学のクイズ研究会の先輩が『高校生クイズ』の問題を
作っているのを見て、
「なんですか?それ?」→「え!?来年やらせてください!!」


 日髙さんといえば「クイズ王」としてメディアに出られることも多く、放送作家としてもクイズ番組に関わることが多いと思いますけど、そもそもクイズに興味を持ったきっかけは?

 「クイズにハマった」「勉強しようと思った」というポイントは14歳なんですけど、小学生の頃から「アメリカ横断ウルトラクイズ」や「高校生クイズ」など、大きい番組は毎年夏や秋になると必ず夢中になって見ていましたね。もっと言えば、物心つく頃にはクイズ番組のセットの電飾の色や、クイズに正解した時のサウンドに反応していたみたいですね。

 へぇ~、クイズ番組の「色」と「音」に惹かれていたんですか。
   
 「クイズ100人に聞きました」「アップダウンクイズ」「スーパーダイスQ」「クイズ・ドレミファドン!」などの番組に反応していたようです。僕自身も覚えていますが。小学1年生の時に、「三枝の国盗りゲーム」で出題された
「Q:ギリシャ文字のアルファベット。最初の文字はアルファ、では最後の文字は?」という問題に、テレビの前で「オメガ!」って答えて正解したのが、人生で最初の「会心の正解」でした(笑)

 すごいですね(笑)それって親の教育があったんですか?

 確かに親もクイズ番組好きだった記憶はあるのですが・・・。僕は宮崎市出身で、よく言われますけど、宮崎市内って民放のチャンネルが2つしか映らないんですね。僕の小さい頃は視聴者参加のクイズ番組がたくさんあって、テレビをつけたら少ない民放の中でクイズ番組が流れていることが多かったんです。それで自然とクイズが好きになっていった感じですね。でも、クイズ番組に限らず、そもそも生粋のテレビっ子なんですよ。

 確かにアンケートを見て、テレビ好きの感じはビシビシ伝わってきました(笑)それで14歳の時に何があったんですか?

 中2の時に「FNS1億2000万人のクイズ王決定戦!」という、逸見政孝さんが司会で、春・秋2回のフジテレビの特番があったんですよ。一般参加の番組だったんですけど、出場するのに年齢制限がなかったんです。その番組で、約1万5千人の中からペーパークイズを勝ち抜いて全国上位100人に残っている人がいて、その人が僕と同い年だったんですよ。それが深澤くんっていう子なんですけど。

 あ!(放送作家の)矢野さんがこのサイトのインタビューで「ほとんど勝てなかった」とおっしゃっていた方ですね!

 そうですそうです!それで「僕も深澤くんみたいにテレビに出たい!」と思って(笑)クイズの勉強を始めたんです。「ウルトラクイズでニューヨークに行きたい」っていうのと「クイズ王決定戦でベスト100に残りたい」っていうモチベーションで、独学でクイズの勉強を始めたんですよ。

 なるほど。当然、高校生のときは「高校生クイズ」には出ました?

 もちろん出ました!3年とも出場しましたし、高2のときは運よく全国大会にも行かせてもらいました。少し遡りますが、「アタック25」中学生大会の予選も受けに行って、静岡予選でペーパーテストをトップ通過したこともあるんですよ。

 お~、さすが。

 それで「アタック25」のオーディションって、ペーパーテストを通過すると集団面接があるんですね。僕も中学2年生にしてはいろいろネタを持っていて、番組スタッフの方に「日高さんはモノマネが得意なんですね?」と振られて。なるほど、こっち方面か、と(笑)「はい!得意です。ものまね四天王では栗田貫一さんが好きです!」なんて言って、当時流行っていたチャゲアスの歌マネをしたんですよ。そしたら、スタッフにも同時に面接を受けている中学生にも、すごくウケたんです。「よかった、これは通ったな」と思っていたら、見事に面接で落ちて(笑)朝日放送からハガキが来て、「あなたは面接で不合格です」なんて書いてあって。結局、中学生大会には出られなかったんですよ。

 あら、なんでですか?

 「なんでだろう? ウケたのになー」とか思いながら、実際に中学生大会のオンエアを見たら、灘中学とか、とにかく真面目そうなメガネの中学生4人が出ていて。「そっちか~!方向性を間違えた~」って(笑)「そっちならそっちのキャラもできるのに~」って(笑)僕はモノマネを振られたから、忠実に全力でやっただけなんですけど、まあ、僕みたいなキャラは、求められてなかったんでしょうね。
   
 (笑)ちなみに矢野さんとは学生時代に出会っているんですよね?

 今も続いている「高校生オープン」っていうクイズ大会があるんですけど、高3の時に、その大会の会場で出会いました。僕はテレビに出ていた「深澤くんに会いたいな~」と思って(笑)勇気を出して浜松から単身・東京に出向いたんですけど、その深澤くんたちと仲良さそうにしている、なんだか体が丸い奴がいて、それが「矢野了平」だったんですね。決勝には5人が残れたんですが、その回は5人の中に深澤、矢野、僕の3人が残ったんですよ。

 お~、すごいメンバーですね。その時に優勝したのは誰なんですか?

 その時はぶっちぎりで矢野了平でしたね。その大会、矢野が神がかっていたというか、絶好調だったんですよ。まあ初対面だったので、もともと強い奴だったのか、たまたま調子が良かったのかは知りませんでしたが、いま思い返すとね。その大会の『記録集』が残っていて、最近読み返したんですけど、決勝では1問を除いて全問、矢野か深澤か僕が解答権を得ていました。見事に空気を読んでいなかったです(笑)

 3人の実力が飛び抜けていたんですね。

 どうなんでしょう?まあ3人とも決勝に行ってますから、ある程度はそうかもしれません。

 そこから2人とは仲良くなったんですか?

 どうなんでしょう。おそらくその時はそこまで仲良くなった感じではなかったと思います。とにかく一人ぼっちでした(笑)矢野と深澤の2人は、当時から関東で一緒にクイズをやっていたので、その頃から仲が良かったと思いますけど。僕は浜松から一人で遠征した身でしたので、そんなに2人と話すという感じではなく。僕は浜松で一番強い高校生だと思っていたのに、東京に行ったら自分以上にクイズ強いヤツらがいて、なんだコイツらは? と。でも向こうにしてみたら、浜松から得体の知れないクイズ好きが来た、と気味が悪かったらしいです(笑)

 では、仲良くなられたのは大学時代ですか?

 そうですね。

 ちなみに日髙さんは大学はどこに行かれたんですか?

 一浪して、慶応に入りました。本当は東大を目指していたんですけどね(笑)運が悪くパニック障害という病気になっちゃって、センター試験の本試では試験会場に向かうことができず、追試では1日目の最後、数学の試験中にリタイアしました。だから東大はおろか、国立大が受けられなかったんです。受験勉強は大好きだったんですけどね。

 やっぱり勉強も出来たんですね~。

 僕にとっては勉強もクイズも同じ感覚で、とにかく勉強が楽しかったんですよ。なんなら今でも東大に入りたいと思っていますし。今でもカフェに受験参考書や問題集を持ち込んで、勉強するのが楽しいんですよ(笑)今は数学にハマっていますね。

 やっぱり世の中には変な人がいますね~(笑)それってどういう感覚ですか?覚えることが好きなんですか?それとも「問題が解ける」ということが快感なんですか?

 たぶん、「上達する」というプロセスが好きなんだと思います。

 そうですか~。矢野さんは東洋大学なのでお2人は違う大学に行かれたわけですけど、クイズ研究会の交流で仲良くなったってことですか?

髙 そうですね。
   
 クイズ好きがたくさん集まるクイズ研究会の中でも、矢野さんとは特に気が合ったんですか?

 当時、大学のクイズ研究会周りでは、問題文が長くて答えが難しい、「長文難問」といわれるクイズが流行っていたんですね。ただ、僕と矢野くんは「テレビクイズ」が好きだったんですよ。それで話が合ったのかもしれないですね。

 やっぱりクイズの中でもそういう趣味・嗜好があるんですね。それで「高校生クイズ」の問題を作る仕事を始めたのは、いつなんですか?

 大学2年生の時ですね。当時は「高校生クイズ」の問題を大学のクイズ研究会が作るっていう慣わしみたいなものがあって、1年生の時にそれを聞いて、
クイズ研の代表である先輩に、「来年、僕にもやらせてください!」って直訴しました。その結果、2年生の時から実際にやらせてもらえることになったんです。

 クイズ好きな大学生としてはワクワクする仕事ですよね。

 「好きなクイズを作って、お金まで頂けるの!?」って感じでした。それが1998年のことなんですけど、僕にとってはこの1年が激動の年で。2月に「アタック25」に出場して優勝もできて、3月に「高校生クイズ」の仕事を始めて、8月に「アメリカ横断ウルトラクイズ」が1回だけ復活しまして。矢野くんも僕も出場して、東京ドームで2人とも福留さんの「ニューヨークへ行きたいか―っ!」「オー!」のあの雄叫びに号泣するっていう一幕があったり(笑)

 そりゃ泣きますよね(笑)憧れの番組ですもんね。

 あとは、6月ごろから、ウッチャンナンチャンさん司会の「炎のチャレンジャー」でクイズを作るお仕事もやらせていただいて。僕にとっては激動の1年でしたね。

 それはすごい1年ですね。

 矢野くんがこのサイトのインタビューで、「アタック25」で深澤くんと対戦した話をしていましたけど、それも98年の11月なんですよね。

 へぇ~、すごい。

 高校時代までに培ってきた、クイズに対するパワーや情熱を、一気に放出した一年、という印象がありますね。1998年は。

興津 豪乃 独占インタビュー

名前興津 豪乃
おきつ ひでのり
出身地千葉県
生年月日1975年5月22日
主な担当番組– ロンドンハーツ
– 和風総本家
– 家、ついて行ってイイですか?
– 水曜日のダウンタウン

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q: 放送作家になったきっかけは?

鮫肌文殊さんに憧れて


田 この「(放送作家の)鮫肌さんに憧れて」っていうのは?

津 順を追って説明しますと、小学校からの親友でサブカルとかテレビに造詣が深い友達がいまして、僕は彼からいろんな影響を受けていたんです。ある時、その友達から「放送作家という職業がある」と聞いて、番組のエンドロールを注目して見るようになって。その頃、「電波少年」が好きだったんですけど、あの番組の作家の方々って特徴のある名前が多かったんですよ。小山薫堂さん、そーたにさん、海老さん、都築さんって。

田 あー、言われてみればそうですね。

津 その中でもひと際目立っていたお名前が「鮫肌文殊」さん。で、さっき言った友達の影響で僕は洋楽も好きだったんですけど、当時、洋楽雑誌をいろいろ漁っている中、鮫肌さんが初期のエルビス・コステロについてのコラムを書いていた雑誌があって、それを読んで「放送作家ってテレビだけじゃなくて音楽について語る仕事もできるんだ!」って思って。さらに当時、電波少年が好だった流れから松村邦洋さんの「オールナイトニッポン」も聞いていたんですけど、松村さんの横で笑っていたのが、番組の構成で入られていた鮫肌さんだったんですよ。

田 はい。

津 そのラジオの中で、鮫肌さんのパンクバンド「捕虜収容所」の曲が流れたことがあって「放送作家はラジオで自分の曲まで流していいのか!?」と驚愕しまして。そんなこんなで、鮫肌さんをきっかけに「放送作家って面白そうだな」と、憧れを募らせていったんです。

田 その後、興津さんは大学時代に放送作家セミナーに行かれてますよね?実は僕、そのセミナーの後輩なんですよ。

津 えっ、そうなんですか!?

田 日テレ学院ですよね?

津 確か、僕が行ってた頃は「日本テレビエンタープライズ」っていう名前だったかと思います。

田 あのセミナーって制作会社の「オフィスぼくら」が主催していて、興津さんの頃はオズマという放送作家事務所とオフィスぼくらが共同でやっていたんですよね?

津 そうですそうです。だから僕は「流れで気づいたら放送作家になってた」っていう人と違って、放送作家になりたくて仕方がなかったタイプです。気づいたら作家になっていた町田さんにイジられるパターンのやつです(笑)

田 セミナーをきっかけにオズマの方から声をかけられて、所属することになったんですか?

津 はい、大学3年の時から放送作家見習いみたいなことを始めて、同期が自分でどんどん仕事を取ってくる中、僕は全然食えなかったので、3~4年ぐらいは事務所に寝泊まりしてましたね。

田 たぶん、そのセミナーって1クラスに40~50人いましたよね?その中から何人がオズマに引っ張られたんですか?

津 僕を含めて3人ですね。

田 あ~、やっぱり凄いですね。その中から選ばれる才能があったってことですよね。

津 いやぁ、自分で生活できるようになるまで、だいぶ時間がかかりましたよ。

田 ちなみに僕は日テレ学院で「月曜から夜更かし」をやっている林田晋一とか、「めちゃイケ」とか「ENGEIグランドスラム」をやっている中藤洋っていう放送作家が同じクラスだったんですよ。

津 えー、クイズ脳ベルSHOWでお馴染みの林田さんも!黄金世代じゃないですか!

田 黄金世代って(笑)オズマといえば中野俊成さんがいらっしゃいましたよね?

津 そうです。中野さんにはその頃からずっとお世話になってますね。今、考えれば、当時は中野さんも30歳くらいの若手なんですけど、貫禄も説得力もめちゃくちゃあったなぁ

田 中野さんってどういう先輩でしたか?

津 中野さんは本当にずっと優しいんですよね。あの穏やかな感じは当時からずっと変わってなくて。仕事もたくさん紹介してもらいましたけど、僕がいくらダメでも怒られた記憶はないですし、「俺の顔に泥を塗るな」みたいなことも絶対言わない人でしたね。ご飯にもよく連れて行ってもらいしましたし、こういうやり方は良くないとか、どういう作家が尊敬すべき人なのかとか、僕が思う放送作家の理想や在り方みたいなものは、中野さんの影響をかなり大きく受けていると思います。

田 事務所に入って、最初は先輩の仕事のネタ出しをしていた感じですか?

津 そうですね。「マジカル頭脳パワー」のクイズを考えたり、「ボキャブラ」のダジャレを考えたりしてました。でもそれは会議にも出ない大勢の若手たちが、紙だけでネタ出しをするレベルの仕事ですけどね。

田 ちゃんと会議に出て、エンドロールにも名前が流れるという意味で、放送作家としての1本目の仕事は?

津 深夜の「ココリコ黄金伝説」ですね。

田 あー、黄金伝説なんですか!?立ち上げからですか?

津 はい、当時はテレビ朝日の平城さんが演出で、台本とかナレーションで実働する若手作家を探していたみたいで、それこそ中野さん経由でオズマに声がかかって、僕が入れていただきました。

田 いざ、番組に入ってみてどうでした?放送作家としてやっていけると思いました?

津 いや~、全然思えなかったです。ネタは通らないし、会議ではしゃべれないし。「作家はしゃべらなきゃダメだよ」ってよく注意されましたね。正直、今でも会議でしゃべるのは苦手ですけど(笑)

田 では、興津さんは放送作家の基礎は、「黄金伝説」で作られた感じですか?

津 そうですね。高須さんと鈴木おさむさんという放送作家界のスーパースターが2人もいましたから。お2人の発想はとても勉強になりましたし、ディレクターさんには台本とかナレーションをよく振ってもらったので、基礎を身に着けることができたのは、あの番組のおかげです。

小林 仁 独占インタビュー

名前小林 仁
こばやし ひとし
出身地京都市
生年月日1971年2月28日
主な担当番組– 明石家電視台
– ごぶごぶ
– あさパラ!
– 真夜中市場
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

▼小学校5年で深夜ラジオを知る「MBSヤングタウン」
▼その頃、漫才ブームが起こる
▼面白いことはしたいけど恥ずかしがり屋だったのでコンビは組まず
    練習に付き合って意見してた(結果、手見せ)
▼ラジオにハマり、ハガキを送りたくなって
 送ったら読まれて幸せな気分を味わう
▼ラジオパーソナリティーに憧れるも、勇気出ず
▼ラジオを聞いている内に「放送作家」の存在を知る
▼中学の時点で「放送作家」になりたくてハガキ職人に

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?

▼オレたちひょうきん族
▼めちゃめちゃイケてるッ
▼鶴瓶・上岡パペポTV


 小学生の頃の漫才ブームっていうのは、やすきよとかツービートが活躍した漫才ブームですよね?

 そうですね。フジテレビで「THE MANZAI」という番組が始まって、全国的に大ブームでしたから、当時、京都で小学生だった私も衝撃を受けましたね。今じゃ伝わらないと思いますが、当時、関西の小学校では友達同士でコンビを組んで、みんなの前で漫才を披露するっていうムーブメントがあったんです。

 それ聞いたことあります。ダウンタウンさんも小学生の頃、それぞれ違う友達とコンビを組んで漫才をやられていたって言いますもんね。

 そうです。僕の通っていた小学校では、土曜のホームルームに漫才を披露する時間があって、そこに向けて1週間かけて放課後に各コンビが漫才を仕上げていってましたね。

 すごい文化ですね(笑)

 アンケートにも書きましたが、当時の僕は恥ずかしがり屋だったので漫才コンビを組めず、でも、面白いことはしたかったので、友達のコンビの漫才を見て「そこはこうした方がいいんちゃう?」とか意見を言ったりしていました。今思えば既に放送作家的なことをやっていました。

 あ~、当時からそういう立ち位置だったんですね。僕も小学生の頃は、行事の出し物で劇とかやる時は、出演はせずに脚本を書いてましたけど、子供の頃からそういう裏方気質みたいなのってありますよね(笑)

 その頃は「放送作家」なんて仕事があることも分かってなかったですけど、ラジオにハマったことをきっかけに“放送作家”という存在を知るんです。「たけしさんの横で笑ってる人がいる。誰やろ?」「嘉門達夫さんの横でツッコんでる人がいる。誰や?」と。当時、中学生でしたが「なりたい職業が見つかった!!!」と興奮しました。

 あ~、僕は世代が違いますけど、高田文夫さんをきっかけに放送作家に憧れた人は多いって聞きますね。

 ラジオをきっかけに知った放送作家に「どうやったらなれるのか?」を日々考え、調べるようになったんですね。その結果、聞いていた「ヤングタウン」というラジオのバイトから、放送作家になっている人が何人かいる!というのを知って「大学生になってヤンタンのバイトをやる!」というのを人生の目標に掲げたんです。

 へぇ~。学生時代から計画的に放送作家を目指した人って珍しい気がしますね。

 それと同時に、ラジオも聴くだけじゃなくて、ハガキを送ってみようと思って、嘉門達夫さんのラジオにネタを書いて送ったんです。そしたら一発目に送ったのがたまたま採用されて。

 お~、すごいですね。

 自分が書いたことが読み上げられてウケた!毎週聞いてた嘉門さんが褒めてくれている!!コレが電波に乗って流れている!!!その全てが嬉しくて、そこから毎週ハガキを送るようになったんですけど、次の週からはなかなか採用されなかったんですね。でも、読まれた快感が凄すぎて諦めきれず、チャレンジしてる内に送るハガキの枚数も最初は2~3枚だったのが20枚とかになって、どうやったら採用されるかとかも研究して、「傾向と対策」も考えるようになったんです。

 例えば、どんな対策をしていたんですか?

 「先週のオープニングトークで話していたこと」にちなんだネタを書くと採用されやすい、とか。他の人より目立つようにクレヨンで書くと採用されやすい、とか。出来るだけ読みやすい字で書く、とか。そんなのですけど。そういうことをやっているとどんどん採用率も上がっていったんです。それが中学・高校の頃ですね。

 中学生ですでにハガキ職人だったんですね(笑)

 そしたらある日、その番組の有名なハガキ職人の方から手紙が来たんです。「嘉門達夫さんがブレーンチームを作ろうとしてるんだけど興味ないですか?」と。その頃、嘉門さんはブレーンを作ろうとしていたらしくて、関西のハガキ職人に声をかけていたそうなんです。僕はその時、高校2年でした。

 それは嬉しいお誘いですよね。

 むちゃくちゃ嬉しかったです!!!「夢だった作家への道が勝手に近づいてきた!」と興奮しましたね。それで、高校も通いながらハガキ職人活動も続けながら、嘉門さんのブレーンチームの1人として嘉門さんから発注が来たら、その都度ネタを提出みたいなのをしていました。その後、1浪して大学に入って念願のヤンタンのバイトを始めるんです。

 計画通りですね。

 いわゆるラジオ番組ADのバイトでしたけど、ディレクターさん達は、僕が作家志望ということは知っていたので「クイズの問題考えて!」とか「新コーナー考えて!」とか、バイトの身でありながら、作家的な仕事も振っていただいたんです。で、もちろん、ずっと聞いてた嘉門さんの曜日にも配属されて、その曜日の作家の東野ひろあきさんにもやっと出会えました。ラジオを聞き始めた小学生の時に嘉門さんの横でツッコんでた「放送作家の存在を知ったきっかけの人」にやっと会えました。

 関西の有名な放送作家の方ですよね。

 そうですね。それでADのバイトを始めてから1年くらい経った時に、僕を含めて作家志望の若手3人で、東野さんの事務所の引っ越しのお手伝いに行ったら、作業が終わった後に東野さんが「みんなにプレゼントがあります」と。それで貰ったのが放送作家の名刺だったんです。要は、東野さんの放送作家事務所に入れていただける、ということだったんですよ。

 あ~、サプライズ的な感じで。

 そこから東野さんが担当する番組に若手として入れてもらえるようになった感じですね。東野さんは大阪ではかなり勢いがある状態でしたから、番組が立ち上がる時に東野さんに声がかかって、東野さんが「ウチの若手作家も何人か入れたいんですけど、どうですか?」という感じで入れていただけることが多かったです。

 それがいくつぐらいの時ですか?

 私が20歳、東野さんは32歳頃だったと思います。

 大学はどうしたんですか?

 大学はヤンタンのバイトやるために入ったようなものだったんで、バイト始めてすぐに、大学1年で辞めたんですよ。勝手に辞めたから親は怒ってましたね。

 本当に放送作家になるためだけに大学に入ったんですね(笑)放送作家デビューと認識されているのは何の番組ですか?

 関西では吉本が劇場を作ると、その劇場で収録する番組が作られるという流れがあったんです。「心斎橋筋2丁目劇場」が出来て「4時ですよ〜だ!」が生まれて成功したからなんですが。その頃は、「うめだ花月」という劇場が新しくなって復活したんです。そのきっかけで出来たのが「テレビのツボ」という深夜の生放送の帯番組なんですけど、超低予算だったので若手作家が集められまして、東野の推しで最若手作家として入れて頂きました。しかも、1曜日につき、作家は1人だったので、いきなり曜日メイン作家(笑)1人立ちの放送作家デビューという意味では「テレビのツボ」になりますね。

 タイミングが良かったんですね(笑)

 それしかないです!(笑)結果、「テレビのツボ」は当時、関西ではかなりのブームになった番組でしたから「深夜番組で面白いことをやったらブームになるんだ!」という体験を出来たのはとても貴重でしたし勉強になりましたね。

秋元 康 独占インタビュー

名前秋元 康
あきもと やすし
出身地東京都目黒区
生年月日1958年5月2日
主な担当番組– ザ・ベストテン
– オールナイトフジ
– 夕焼けニャンニャン
– とんねるずのみなさんのおかげです。

事前アンケートはお願いせずに全て現場でインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

Q:今まで自分が通した中でベストな企画は?


 この取材にあたって、秋元さんが出された本や、過去に取材を受けた雑誌記事を色々と調べさせていただいたんですけど、今日は出来るだけ他でお話してないことをお聞きしたいので「放送作家になったきっかけ」は割愛させていただきます。色々なところでお話されてるので。

 分かりました。

 まずは、秋元さんは17歳で放送作家を始められていますが、テレビをメインに仕事をされていた時期って、どれくらいの本数をやっている売れっ子作家だったのか?っていうところからお聞きしたいんですが。ピーク時で担当番組は何本ぐらいあったんですか?

 うーん、当時の本数とかをちゃんと覚えてないんですよね。純然たる放送作家としてやっていたのは、17歳から21歳くらいまでですからね。その後はもう歌詞を書いていましたから。

 大ヒットした稲垣潤一さんの『ドラマティック・レイン』の作詞をされたのが、確か24歳の時ですもんね。そして、その翌年には名優・伊武雅刀さんが歌われた『子供達を責めないで』(原曲:サミー・デイヴィスJr.歌唱)で、斬新で強烈な日本語歌詞も書かれていますよね。では質問を変えまして…秋元さんは放送作家としてはどういうタイプだったのでしょうか?例えば、小山薫堂さんは、知的でオシャレな番組を作られているな、とか。三木聡さんは、くだらない細かいお笑いが得意なんだろうな、とか。成功された放送作家の方にはそれぞれの“色”を感じるのですが、ご自分ではどういうタイプだったと思いますか?

 それでいうと「プロデューサータイプ」かもしれないですね。ある程度、仕事を任せてもらえるようになってからは「こういうことがやりたいな」と思ったら、テレビでやるのがいいのか?ラジオでやるのがいいのか?CMでやるのがいいのか?映画でやるのがいいのか?それとも音楽でやるのがいいのか?そういうプロデューサー的な考え方になっていったような気がしますね。

 やはり放送作家としてもプロデューサー脳が強かったんですね。では、アンケートの項目にあるんですが、放送作家としてこれまでテレビ番組で考えた企画の中で「ベストな企画」だと思っているものは何ですか?

 好きだったのは『ねる様の踏み絵』ですね。あまりにくだらない番組でしたからね。

 あ~、『ねる様の踏み絵』ですか。企画者としては、くだらないことがお好きなんですか?

 そうですね。カップルをシャッフルして違うカップルを作るっていう番組なんですけど、僕は好きでしたね。それか、今放送している『青春高校3年C組』です(笑)

 そう言っていただけると、番組に関わらせていただいている僕としても嬉しいです(笑)秋元さんが過去に話された記事の中で「ある程度の年齢になってからは企画の考え方も王道になってきた」ということをおっしゃっていたんですが、若い頃と今では、企画の考え方は全然違いますか?

 放送作家を始めた頃って、深田君もそうだったと思うけど「何が自分の1番の武器か」ってことじゃない?

 はい。

 劇団出身の人であれば、舞台でやっていたお笑いのセンスが武器です、とか。コントが得意です、とか。僕の場合は高校2年で放送作家を始めているので「最年少」ということが武器だったの。当時は、大学生で放送作家っていうのもあまりいなかったから、リスナーや視聴者に年齢が近いということが僕の武器だったからね。会議には企画を判断してくれる大人たちがいたから、僕はわりと無責任に自分が面白いと思う企画を出していたんですよね。それがだんだんと自分が企画を決めなきゃいけない立場になってくると、そうはいかなくなってくるよね。

 やはり責任ある立場になってくると「外してはいけない」という考えも強くなってくるということですよね。テレビの企画だと『ねる様の踏み絵』。では、作詞家として「ベストだと思っている曲」というのはありますか?

 うーん、何だろう。やっぱり世間的に評価していただいているのは、美空ひばりさんの『川の流れのように』かな?でも、放送作家的な発想でいうと好きなのは『なんてったってアイドル』とか、伊武雅刀さんの『子供達を責めないで』とかなんですよね。とんねるずの『雨の西麻布』を作った時も楽しかったし。

 あ~、なるほど。

 作詞をするようになった時も初めは「自分の優位性が何か?」ってことを考えたんですよ。自分は松本隆さんのようにミュージシャンではないし、なかにし礼さんのようにフランス文学を学んだわけではないし。唯一、自分にあるのは“放送作家”ということだったからね。最初は詞を書くというよりも、放送作家として「この人が何を歌ったら面白いかな」という、企画を考えるような感じでしたからね。

 美空ひばりさんの『川の流れのように』は、そういう意味では放送作家的な発想で書いた詞ではない、ということですよね?

 そう、あれは元々シングル用に書いたものではなかったからね。放送作家的なプロデューサーの僕としては「ハハハ」という曲、美空ひばりさんの「ハハハ」という笑い方を書いたものをシングルにしようとしていたんですけど、ひばりさんが「どうしても『川の流れのように』をシングルにしたい」とおっしゃったので、途中でひっくり返ったんですよね。

内村 宏幸 独占インタビュー

名前内村 宏幸
うちむら ひろゆき
出身地熊本県人吉市
生年月日1962年6月22日
主な担当番組– 夢で逢えたら
–  オレたちひょうきん族
–  ダウンタウンのごっつええ感じ
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

デビューまもないウッチャンナンチャンと一緒にネタを作っていて、
彼らがメインでやる深夜番組に作家として入った。

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?

8時だよ!全員集合
ムー一族


 この取材にあたって改めて読ませていただいたんですが、2016年に内村さんが出されている「ひねり出す力」という本に、“放送作家になったきっかけ”は書かれていたので、今回のインタビューでは割愛させていただきますね。取材時間にも限りがありますし、今日は出来るだけ本に書かれていないことをお聞きしたいので。

 わかりました。確かにその辺のことはだいたい本に書きましたからね。要は、放送作家になったのはいとこ(内村光良)のコネです(笑)

 (笑)
「笑いの殿堂」という番組が放送作家デビューなんですよね?

 そうです。フジテレビの深夜番組ですね。

 ですので、まだ「ひねり出す力」を読まれていない方は是非、購入して読んでいただければと(笑)「夢で逢えたら」「ごっつええ感じ」「笑う犬」「サラリーマンNEO」など、伝説の番組のエピソードもたくさん書かれていて、とても面白いですから。テレビ関係者以外が読んでもタメになる本だと思いますし。

 よろしくお願いします(笑)

▲『ひねり出す力 ~“たぶん”役立つサラリーマンLIFE!術~』

谷田 彰吾 独占インタビュー

名前谷田 彰吾
たにだ  しょうご
出身地神奈川県横浜市
生年月日1980年6月3日
主な担当番組– 中田敦彦のYouTube大学
– まふまふの『ひきこもりでも◯◯したい!』
– 青春高校3年C組
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

大学4年で劇団を解散し、これからどうしようという時に、TV業界に進んでいた先輩に勧められ、作家事務所の入所試験を紹介してもらった。

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?

水曜どうでしょう


 大学で演劇をやられていたとのことですが、差し支えなければ、どこの大学に通われてたんですか?

 明治大学です。明治大学って演劇学科もあって、演劇が盛んな大学なんですよ。ぼくは演劇学科ではなかったんですけど。「騒動舎(そうどうしゃ)」っていう演劇サークルに入って、役者としてもやりつつ、脚本を書いたりもしていたんですよ。有名どころだと「ジョビジョバ」がこのサークル出身なんです。

 あ~、そうなんですか。谷田さんがやっていたのはコメディですか?

 そうです、コメディをやってました。で、大学4年の春にジーワンという制作会社で働いていたサークルの先輩から「うちの会社に放送作家部門があるから受けてみないか?」と言われて、試験を受けに行ったんです。

 それまでは放送作家になりたいとは思ってなかったわけですよね?

 そうですね。おもしろいものを作るのは好きでしたが、具体的に放送作家というビジョンがあったわけではないです。でも、放送作家って響きはかっこいいし、めったにいないし、なれるなら面白いかな、目立てるかな、くらいのノリでした(笑)

 試験はどんな内容だったんですか?

 一次と二次があって、一次は時事ニュースの知識テストと作文と面接でした。時事テストは時事ネタをどういう目線で斬るか?とかじゃなくて、単純に知っているかどうか。面接の時に、「君は声がいいからナレーターになった方がいいよ」と言われたので「落ちたな」って思ったんですけど、運良く二次に進むことができて。二次は企画書を書いてプレゼンする試験。こっちはそこそこ手応えありました。無事に合格通知が届いて、それからジーワンで働くことになりました。

 最初はどんな感じで働いていたんですか?リサーチとかネタ出しですか?

 そうです。毎日会社に行って、先輩のやっている番組のお手伝いとか、実際に番組にも入れてもらったりしてました。出勤初日からクイズ作りましたよ。

 放送作家としての1本目の仕事は?

 何を持って放送作家デビューかが難しいですけど、自分の書いた台本がオンエアでちゃんと読まれたってことで言うと、フジテレビの「すぽると」ですね。確か2年目くらいの時に入れてもらった番組です。

 あ~、「すぽると」をやられていたんですね。

 元々は演劇サークルでもコメディをやっていましたし、バラエティ志望でしたけど、放送作家として働き始めてからはスポーツ系の番組をやることが多かったですね。「バースデイ」とか「プロ野球戦力外通告」とか。

 ぼくも一応スポーツキャラを売りにしたいとは思ってる作家なので、谷田さんのやられてる番組は羨ましいやつ多いですね(笑)ちなみに、今は独立されてますけど、独立したタイミングは?

 今39歳なんですけど、34歳くらいの時ですね。

勝木 友香 独占インタビュー

名前勝木 友香
かつき ゆうか
出身地福岡県
生年月日1978年9月11日
主な担当番組– 林修の今でしょ講座
– ホンマでっか!?TV
– 浜ちゃんが
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

モデルとして番組アシスタントガールをしていた時に、
放送作家という職業を知って、「やってみたい!」と口走ったこと。


 勝木さんについて軽くお調べしたんですが、元々モデルをやられていたんですよね?

 そうですね。私、福岡のど田舎出身なんですけど、高校生の時にスカウトされてモデルを始めたんです。

 田舎出身なんですか?見た目では都会っ子感が出てらっしゃいますけど(笑)

 田んぼの真ん中をおさげ髪で歩く女の子でしたよ(笑)自宅の玄関でホタル見たことありますからね。

 へぇ~

 スカウトされて事務所に入り、初めてのオーディションで合格して……ブライダルショーだったんですが軽い気持ちで現場に行ったら「non-no」とか、私が見ていた雑誌に載ってるモデルさんたちがたくさんいて…そりゃあ田舎の女の子は舞い上がっちゃいますよね。私にとってはその方々ですら「スター」って感じでしたけど、そのスターたちが、ある女性が部屋に入ってきた瞬間に息を飲んだんです。それがまだ女優をやられる前の川原亜矢子さんだったんですよ。

 おぉ~。

 当時、ヨーロッパのコレクションとかに出てらして日本人としてはトップオブトップのモデルである川原亜矢子さんを目の当たりにして、その華やかさに憧れちゃって「私、モデルになる!」って言って、東京に出てきちゃいましたね。

 モデルさんの仕事っていうのは雑誌がメインですか?

 雑誌もやりましたし、ショーにも出ましたし、テレビにも出ましたし、色々なジャンルのお仕事をやらせていただきましたね。

 ちなみにどこの事務所ですか?

 オスカーです。

 勝木さん、オスカーだったんですか!?

 なので私、米倉涼子さんと同じクラスでレッスン受けましたよ。腹筋の時に、米倉さんの足をおさえたりして…(笑)

 めちゃくちゃ凄いじゃないですか!放送作家になったきっかけが番組のアシスタントってことですけど、どういった番組でアシスタントをされてたんですか?

 放送作家になったきっかけの番組はまた別なんですけど、有名な番組だと「おしゃれカンケイ」とか「紅白歌合戦」とか。

 おぉ~、すごい。

 アシスタントとしてテレビの現場に出入りするようになってから“放送作家”っていう存在を知ったんですよ。ディレクターさんとかADさんは忙しそうにしてるのに、なんか現場で涼しそうな顔して、それでいてブランドモノのバッグを持ってる、お金持ちそうな人がいるな~って(笑)

 はいはい(笑)

 それで「あの人たちはどういった方なんですか?」って聞いたら、「放送作家」という職業だと。当時の私は「楽そうなのに儲かってそう」って思って、「私も放送作家やってみたいです」って言ったんです。もちろん、放送作家が楽だなんてとんでもない大間違いってことは、仕事を始めてすぐに気づくんですけど(笑)

 まあ、収録現場での放送作家を見たらそう思いますよね(笑)
それが何歳の時ですか?

 たぶん、24歳とかですね。

 何ていう番組でその流れになったんですか?

 NHKでやっていた「ふたりのビッグショー」っていう番組です。その後、放送作家事務所を紹介していただいて、面接に行ったんですけど、私はモデルしかやったことがない世間知らずな女だったんで、ミニスカにロングブーツで行ったんですよ。

 ムカつく女ですね~(笑)

 そしたら「あなたみたいな子が真面目な番組やるのも面白いかもね」って面白がってもらえて、その2週間後には番組の会議に出てましたね。

 モデルを続けながら放送作家を兼業してたんですか?

 そうです。モデルと放送作家の2足のわらじでしばらくはやってました。
   
 放送作家1本になるきっかけはあったんですか?

 モデルの仕事が嫌で「放送作家をやりたい」ってなったわけではなかったので、最初の頃はモデルの撮影がある日に番組の会議が入ったら「なんで撮影の時に会議があるの~(怒)」とか思ってたんですけど、それがある時に逆転した瞬間があったんですよ。「なんで会議ある時に撮影入ってんの~(怒)」って。

 そんな瞬間が来たんですね。

 放送作家としてレギュラーが決まったり、仕事を任されるようになって楽しくなってきてたし、モデルの仕事は嫌いではなかったけど、自分が思い描いていたようなトップモデルという状況でもなかったので、それをきっかけに放送作家1本でやろうってなりましたね。それが放送作家を始めてから2年くらい経った頃ですね。

 勝木さんが放送作家デビューの番組として認識されてるのは、何ですか?

 自分の中では「ちい散歩」ですね。先輩に呼ばれてくっついていってやらせてもらった番組ではなくて、私個人として呼んでいただけた1本目のレギュラー番組が「ちぃ散歩」だったので。

 おぉ~、「ちい散歩」やられてたんですね。

町田 裕章 独占インタビュー

名前町田 裕章
まちだ ひろあき
出身地埼玉県
生年月日 1974年7月25日
主な担当番組 – ロンドンハーツ 
– アメトーーク 
– VS嵐
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

テレビ朝日でバイトしていて、なんとなく。


 テレビ朝日でバイトをしていたのは、大学生の時ですか?

 もう(大学は)辞めてたのかな、ちょっと忘れちゃった。当時、バイトいろいろしてて、知り合いだった業界の方から、テレビ番組のリサーチのバイトがあるからやってみない?と言われて。

 それはなんていう番組ですか?

 ナインティナインさんの「Q99」っていう番組。

 リサーチのバイトから、どうやって放送作家の仕事をするようになったんですか?

 そのリサーチャーの仕事というのが、テレ朝の制作デスクに、週3ぐらい通ってやるみたいな感じだったんだけど、当然、その番組のスタッフの人たちと仲良くなるじゃない?で、仕事はもちろん、仕事終わりで遊び行ったりするようになって、普通に大学の友達とかといるよりも楽しいなって思ってきて。その時のスタッフさんの中に、今でも仕事してるロンハーの加地さんとか朝倉さんとかがいて。最初出会った時はお2人ともADだったかと思います。

 あ~、そこでその人たちと出会ってるんですね。

 で、この辺は曖昧なんだけど、たしか番組が終わることになって、同じスタッフで新しい番組をやるって流れだったと思うんだけど、リサーチャーが必要ない番組内容だったの。それで「じゃあ、作家でもやる?」ってことになって、僕としては「この人たちと居た方が楽しいな」と思ってたから、是非やらせて下さいみたいな感じだったかな、たしか。曖昧ですが。

 それはなんていう番組ですか?

 「ナイナイナ」っていう番組。初めてエンドロールが流れたのがこの番組だと思います。

 あ~、ナイナイナ!町田さんといえばロンハー育ちっていうイメージがあるんですけど、ロンハーが始まったのは作家何年目の時ですか?

 確か2年目ぐらいだったと思う。

 放送作家としてはいつから食えるようになりました?

 それが、そういう流れで今までずっと来てるから、いつから食えるようになったとか考えたことなくって。なんなら今でもプロの作家という意識もあんまりないし(笑)。元々、どうしても作家になりたかったわけじゃなくて、「この人たちといると楽しいな」と思ってやってきただけだから。極端な話、加地さんや朝倉さんが別の仕事、飲食店でもやるってなったら、普通に手伝うと思うし(笑)。この仕事がやりたいというよりも、この人と仕事をしたいっていう気持ちの方が大事ですね今も。

藤原 ちぼり 独占インタビュー

名前藤原 ちぼり
ふじわら ちぼり
出身地岡山県岡山市
生年月日1979年6月17日
主な担当番組– サラリーマンNEO
– となりのシムラ
– 笑アニさまがやってくる
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

・2007年のM-1グランプリ。サンドウィッチマンさんの優勝を見て上京
・内村宏幸さんのコント講座


 藤原さんは大学を卒業してから何年かは、地元の岡山で就職して働いていたんですよね?

 そうです。ホームページを制作する会社に勤めていたんですけど、28歳の時に会社が倒産することになってしまって…サイトの企画をする仕事だったので「何かを企画する仕事が出来ないかな…」と考える中で、放送作家という仕事が選択肢の1つに浮かんだんです。ただ、「この年齢からじゃ遅いよな」とも思って、すぐに放送作家を目指そうとはならなかったんですけど。

 そんな時にM-1のサンドウィッチマンさんの優勝を見たんですね?

 はい、サンドウィッチマンさんの優勝を見て感動して「自分も今からでもやれるんじゃないか?」って勇気を貰って、思い切って放送作家を目指すことにしたんです。

 それで上京したんですか?

 そうですね。

 東京に来てからはまず何をしたんですか?

 ネットで放送作家スクールを探しました。調べたらマセキ芸能社がスクールをやっていたので、電話してみたんです。そしたら、「(作家コースは)今期はやってないです」と言われて。それで他のスクールを探したら、放送作家の内村宏幸さんが、通信で「コント講座」を始めるっていうのが出てて、それでその講座を受けたんです。

 内村宏幸さんっていうのは、コント界の大御所放送作家ですけど、ウッチャンナンチャンの内村光良さんの従兄弟の方ですね。「夢で逢えたら」「ごっつええ感じ」「やるならやらねば」「気分は上々」「内村プロデュース」「笑う犬」「LIFE」「サラリーマンNEO」と、挙げればキリがないほど、数々の人気番組をやられてきた方です。それで内村さんに弟子にとってもらったんですか?

 いえ、その通信講座では特に何もなかったんですけど、講座のおかげでコントの書き方は分かったので、自分でコントを書いて、当時放送していて好きだった「サラリーマンNEO」宛に送ってたんです。そしたら、しばらくして演出の吉田照幸さんから連絡が来たんです。「(コント作家としての)可能性あると思うから一度会ってみますか?」と。

 おぉ~、凄いですね。吉田照幸さんって朝ドラの「あまちゃん」の演出をされてた方ですよね。

 そうです。それでNHKでお会いして、「サラリーマンNEO」に入れていただいたんです。会議は参加せずにコント案だけ出すスタイルでしたけど。

 「サラリーマンNEO」で内村さんにも直接会えたわけですよね?

 はい、コントの収録には行かせてもらっていたので、そこで通信講座を受けていたことをお話させていただきました。その後、内村さんには2010年にあった、「笑う犬」の復活特番に呼んでいただいたり、仕事で色々とお世話になっていますね。

 ちなみに上京する時、すでに今の奥さんと付き合っていたんですよね?「放送作家になりたいから上京する!」って、どんなリアクションでした?

 そりゃあ、ビックリしてましたね。もう29歳になる時でしたから。まず僕が先に上京して、その半年後くらいに奥さんも上京してきました。看護師なんで、東京に来ても仕事はあるだろうと。

 ただただぼくの興味で聞きたいんですけど、どうやって知り合ったんですか?(笑)

 奥さんは同い年なんですけど、お互い25歳の時に、友人の結婚式の2次会で知り合いました。
   
 で、結婚はいつしたんですか?

 30歳の時です。

 藤原さんからプロポーズしたんですか?

 そういうとこまで聞きます(笑)箱根旅行に行った時にしたんですけど…その時は「考えさせて」って断られたんですよ(笑)

 その後の旅行、めちゃくちゃ気まずいっすね(笑)

 そう、箱根からの帰りは気まずかったですよ(笑)まあ、その時は放送作家として食えるか食えないかぐらいの微妙なラインだったんで、迷うのも無理はないんですけど。で、3日後ぐらいに、「OKです」って言ってもらって、結婚することになりました。

 よかったよかった。