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小林 仁 独占インタビュー

名前小林 仁
こばやし ひとし
出身地京都市
生年月日1971年2月28日
主な担当番組– 明石家電視台
– ごぶごぶ
– あさパラ!
– 真夜中市場
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

▼小学校5年で深夜ラジオを知る「MBSヤングタウン」
▼その頃、漫才ブームが起こる
▼面白いことはしたいけど恥ずかしがり屋だったのでコンビは組まず
    練習に付き合って意見してた(結果、手見せ)
▼ラジオにハマり、ハガキを送りたくなって
 送ったら読まれて幸せな気分を味わう
▼ラジオパーソナリティーに憧れるも、勇気出ず
▼ラジオを聞いている内に「放送作家」の存在を知る
▼中学の時点で「放送作家」になりたくてハガキ職人に

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?

▼オレたちひょうきん族
▼めちゃめちゃイケてるッ
▼鶴瓶・上岡パペポTV


 小学生の頃の漫才ブームっていうのは、やすきよとかツービートが活躍した漫才ブームですよね?

 そうですね。フジテレビで「THE MANZAI」という番組が始まって、全国的に大ブームでしたから、当時、京都で小学生だった私も衝撃を受けましたね。今じゃ伝わらないと思いますが、当時、関西の小学校では友達同士でコンビを組んで、みんなの前で漫才を披露するっていうムーブメントがあったんです。

 それ聞いたことあります。ダウンタウンさんも小学生の頃、それぞれ違う友達とコンビを組んで漫才をやられていたって言いますもんね。

 そうです。僕の通っていた小学校では、土曜のホームルームに漫才を披露する時間があって、そこに向けて1週間かけて放課後に各コンビが漫才を仕上げていってましたね。

 すごい文化ですね(笑)

 アンケートにも書きましたが、当時の僕は恥ずかしがり屋だったので漫才コンビを組めず、でも、面白いことはしたかったので、友達のコンビの漫才を見て「そこはこうした方がいいんちゃう?」とか意見を言ったりしていました。今思えば既に放送作家的なことをやっていました。

 あ~、当時からそういう立ち位置だったんですね。僕も小学生の頃は、行事の出し物で劇とかやる時は、出演はせずに脚本を書いてましたけど、子供の頃からそういう裏方気質みたいなのってありますよね(笑)

 その頃は「放送作家」なんて仕事があることも分かってなかったですけど、ラジオにハマったことをきっかけに“放送作家”という存在を知るんです。「たけしさんの横で笑ってる人がいる。誰やろ?」「嘉門達夫さんの横でツッコんでる人がいる。誰や?」と。当時、中学生でしたが「なりたい職業が見つかった!!!」と興奮しました。

 あ~、僕は世代が違いますけど、高田文夫さんをきっかけに放送作家に憧れた人は多いって聞きますね。

 ラジオをきっかけに知った放送作家に「どうやったらなれるのか?」を日々考え、調べるようになったんですね。その結果、聞いていた「ヤングタウン」というラジオのバイトから、放送作家になっている人が何人かいる!というのを知って「大学生になってヤンタンのバイトをやる!」というのを人生の目標に掲げたんです。

 へぇ~。学生時代から計画的に放送作家を目指した人って珍しい気がしますね。

 それと同時に、ラジオも聴くだけじゃなくて、ハガキを送ってみようと思って、嘉門達夫さんのラジオにネタを書いて送ったんです。そしたら一発目に送ったのがたまたま採用されて。

 お~、すごいですね。

 自分が書いたことが読み上げられてウケた!毎週聞いてた嘉門さんが褒めてくれている!!コレが電波に乗って流れている!!!その全てが嬉しくて、そこから毎週ハガキを送るようになったんですけど、次の週からはなかなか採用されなかったんですね。でも、読まれた快感が凄すぎて諦めきれず、チャレンジしてる内に送るハガキの枚数も最初は2~3枚だったのが20枚とかになって、どうやったら採用されるかとかも研究して、「傾向と対策」も考えるようになったんです。

 例えば、どんな対策をしていたんですか?

 「先週のオープニングトークで話していたこと」にちなんだネタを書くと採用されやすい、とか。他の人より目立つようにクレヨンで書くと採用されやすい、とか。出来るだけ読みやすい字で書く、とか。そんなのですけど。そういうことをやっているとどんどん採用率も上がっていったんです。それが中学・高校の頃ですね。

 中学生ですでにハガキ職人だったんですね(笑)

 そしたらある日、その番組の有名なハガキ職人の方から手紙が来たんです。「嘉門達夫さんがブレーンチームを作ろうとしてるんだけど興味ないですか?」と。その頃、嘉門さんはブレーンを作ろうとしていたらしくて、関西のハガキ職人に声をかけていたそうなんです。僕はその時、高校2年でした。

 それは嬉しいお誘いですよね。

 むちゃくちゃ嬉しかったです!!!「夢だった作家への道が勝手に近づいてきた!」と興奮しましたね。それで、高校も通いながらハガキ職人活動も続けながら、嘉門さんのブレーンチームの1人として嘉門さんから発注が来たら、その都度ネタを提出みたいなのをしていました。その後、1浪して大学に入って念願のヤンタンのバイトを始めるんです。

 計画通りですね。

 いわゆるラジオ番組ADのバイトでしたけど、ディレクターさん達は、僕が作家志望ということは知っていたので「クイズの問題考えて!」とか「新コーナー考えて!」とか、バイトの身でありながら、作家的な仕事も振っていただいたんです。で、もちろん、ずっと聞いてた嘉門さんの曜日にも配属されて、その曜日の作家の東野ひろあきさんにもやっと出会えました。ラジオを聞き始めた小学生の時に嘉門さんの横でツッコんでた「放送作家の存在を知ったきっかけの人」にやっと会えました。

 関西の有名な放送作家の方ですよね。

 そうですね。それでADのバイトを始めてから1年くらい経った時に、僕を含めて作家志望の若手3人で、東野さんの事務所の引っ越しのお手伝いに行ったら、作業が終わった後に東野さんが「みんなにプレゼントがあります」と。それで貰ったのが放送作家の名刺だったんです。要は、東野さんの放送作家事務所に入れていただける、ということだったんですよ。

 あ~、サプライズ的な感じで。

 そこから東野さんが担当する番組に若手として入れてもらえるようになった感じですね。東野さんは大阪ではかなり勢いがある状態でしたから、番組が立ち上がる時に東野さんに声がかかって、東野さんが「ウチの若手作家も何人か入れたいんですけど、どうですか?」という感じで入れていただけることが多かったです。

 それがいくつぐらいの時ですか?

 私が20歳、東野さんは32歳頃だったと思います。

 大学はどうしたんですか?

 大学はヤンタンのバイトやるために入ったようなものだったんで、バイト始めてすぐに、大学1年で辞めたんですよ。勝手に辞めたから親は怒ってましたね。

 本当に放送作家になるためだけに大学に入ったんですね(笑)放送作家デビューと認識されているのは何の番組ですか?

 関西では吉本が劇場を作ると、その劇場で収録する番組が作られるという流れがあったんです。「心斎橋筋2丁目劇場」が出来て「4時ですよ〜だ!」が生まれて成功したからなんですが。その頃は、「うめだ花月」という劇場が新しくなって復活したんです。そのきっかけで出来たのが「テレビのツボ」という深夜の生放送の帯番組なんですけど、超低予算だったので若手作家が集められまして、東野の推しで最若手作家として入れて頂きました。しかも、1曜日につき、作家は1人だったので、いきなり曜日メイン作家(笑)1人立ちの放送作家デビューという意味では「テレビのツボ」になりますね。

 タイミングが良かったんですね(笑)

 それしかないです!(笑)結果、「テレビのツボ」は当時、関西ではかなりのブームになった番組でしたから「深夜番組で面白いことをやったらブームになるんだ!」という体験を出来たのはとても貴重でしたし勉強になりましたね。

名前小林 仁
こばやし ひとし
出身地京都市
生年月日1971年2月28日
主な担当番組– 明石家電視台
– ごぶごぶ
– あさパラ!
– 真夜中市場
など

Q:今まで自分が通した中でベストな企画は?

「ロケみつ」の中の「関西縦断ブログ旅」「桃太郎ドミノ」
「見参!アルチュン」
「女の子宣言!アゲぽよTV」
「オカンの息子に会いたい!」

Q:ディレクターやプロデューサーにアピールしたいことは?

●関西の演芸・芸人に詳しい。

●地方局大好き!地方局での仕事大歓迎!
名古屋・広島・北海道でレギュラーやっています。
地方局の皆さん!「作家は高そう」「作家の使い方がわからない」
そんな皆さんにこそ体験して頂きたいです!無料で様々な相談に乗ります!

●低予算番組深夜を数多くやってきた!
今も関西で活動していますので超低予算の番組はいくつもやってきました
低予算は低予算を武器にした番組作りをすれば話題の番組は出来ます!

●ハイヒール(女漫才師)に詳しい!
ダウンタウンさんの高須さんに当たるのが
ハイヒールさんの私です。何でも聞いてください!
不慣れな番組の出演時の相談など
ハイヒールさんの為になるので無償でやります!


 アンケートに書かれているハイヒールさんとは、どうやって知り合われたんですか?

 「テレビのツボ」をやっていた20代前半の頃に、ラジオ大阪でハイヒールさん出演の朝の帯番組の仕事を東野が取ってきてくれて、その木曜日に配属され、そこで知り合いました。ラジオってテレビよりも演者さんと作家が距離が近くなるんで、そこで気に入ってくださったらしく、ラジオをやってる頃に、たまたまハイヒールさんのメインMCのテレビ番組が2本立ち上がったので、距離の近い作家という立場で両番組にお2人から推薦して頂きました。その2番組「真夜中市場」と「あさパラ!」が23年目で今も尚、続いているので長い付き合いです。

 けっこう仲良くされているんですか?

 お2人共にお世話になっていますが、特にモモコさんとは仲良くさせていただいていまして、2人で食事も行きますし、かつてはモモコさんの家族スキー旅行にご一緒させて頂いたこともあります。不思議な感覚でしたけど。

 それはかなりの関係性ですね。ハイヒールさんが番組をやられるときは必ずお呼びがかかるんですか?

 「必ず」ではないですけど、特番も含めてお呼びがかかることは多いですね。ありがたいです。

 他に関係性のある芸人さんはいらっしゃいますか?

 ハイヒールさんほどではないんですが、バッファロー吾郎さんとは長年、大喜利ライブの「ダイナマイト関西」をやってましたし、ますだおかださんとはデビューの頃のラジオからの関係ですし、友近さんとも長い付き合いになってますね。

 友近さんとの出会いは?

 バッファロー吾郎さん主催のライブを担当してたんですが、友近さんにはまだ全く売れていない時に出てもらって、そこでネタを見て「女性でこんな所を突くネタをする人がいるんだ!」って、衝撃を受けたんですよ。

 けっこう色んな人が、売れる前から友近さんのこと評価されてましたもんね。

 今もお世話になっている放送作家の大先輩のかわら長介さんが、若い頃に、デビュー間もない時期のさんまさんを見て衝撃を受けて、年下のさんまさんに挨拶に行って「一緒に何かをやらせてください!」と直訴したというエピソードがあるんです。

 へぇ~、かわら長介さんのその話は初めて聞きました。僕、そういう話、好きなんですよ。

 「いつか作家としてそんな日が来るのかな〜?」と思ってはいたんですが、友近さんのネタを見た時に「コレがその日か!」と思って、そのライブの打ち上げ終わりに、勇気出して挨拶したんです(笑)「はじめまして。とても面白かったです。何か手伝わせてください」って。それで連絡先を交換してもらいましたね。

 それからはどうされたんですか?

 番組の企画とかコーナーを考える時には、友近さんが活きて面白くなりそうな企画を考えて、それが通ったら「ちょうど、この企画に合う『友近』っていう面白い若手芸人の子がいまして・・・」ってディレクターに言ってキャスティングしてもらったりしました。友近さんが歌が上手過ぎるっていうのが面白かったので、当時から担当してる「オールザッツ漫才」で、歌ウマ芸人のコーナーを考えて、まだまだ無名だったけど出てもらえました。絶対に売れるって信じてたので名古屋の局にも推薦しました。結果、名古屋で友近さんがメインMCの番組が10年以上たった今も続いていたりして、とにかく「友近」という芸人を色々な人に知ってもらいたい!という動きをしてましたね。

 他に無名の頃に見た芸人さんで、「この人は絶対売れるな」って思った人って誰ですか?

 いや〜数々見てきましたけど、「絶対に売れる!」って確信持てたのは少なかったですよ。そもそも僕が「何が売れるか?」を分かってないし。面白い!は分かりますが、売れるのはまた別の要素が必要ですもんね。ケンドーコバヤシさんも、くっきー!さんも、千鳥さんも無名の頃から知ってますし、その頃から皆さん面白かったですけど、東京でこんなに売れるとは思わなかったですね。僕が面白いと思う芸人さんは、なんか「男臭い系」なんで、皆、ビジュアル面的には売れなさそうな人ばっかりでしたねぇ。

 あ~、そんなもんなんですね。

 最近でいうと霜降り明星のせいやクンは、最初会った時には“明るくて楽しい大学生”って感じで、ま、実際に大学生だったんですけど。芸人さんから愛されていたから「劇場では人気が出るだろうな〜」とは思っていましたけど、東京でこんなに売れるとは思わなかったですよ。正直、“明るくて楽しい大学生”で終わると思ってましたから(笑)あ!ネタ見て「これはハネるな!」って思ったのでいうと、8.6秒バズーカーですね。初めて見た時に「これはオリラジみたいな感じで行くわ!」って思いましたけど。

 あ~、やっぱりあのネタは初見でそう思われましたか。あと、小林さんはけっこう地方局でお仕事されてますよね?

 そうですね。

 大阪にはそういう作家さんが多いんですか?

 他の作家さんの仕事を全部把握してるわけじゃないですが、これは大阪でも僕が特殊なんだと思いますね。これだけ全国の色々な地方局で仕事をさせてもらっている放送作家は僕だけなんじゃないか?と思ってます(笑)

 東京にいる作家からしたら名古屋とか大阪の番組をやって、隔週とかで地方に行く感じ、憧れるんですよね~(笑)地方局で番組をやりたいというのは、具体的にどういう気持ちなんですか?

 縁がつながって、名古屋には20年くらい、広島には15年くらい、北海道は今年からお世話になってるんですが、やっぱり番組の予算って広告費なんで、東京より大阪は少ないですし、大阪よりは名古屋、名古屋よりは広島・・・って少ないんですよね。予算が少ないってことは、関わるスタッフの人数も少ないですし、そもそも番組も少ない。情報番組はあってもバラエティー番組は少ない。少ないってことは、それだけテクニックやノウハウも必然的に知らないのが当然になるんですよ。ただ、能力や熱意のあるテレビマンは、本当に沢山いらっしゃるんです。「やり方はわからないけど、何か面白いことをやりたいんだ!」って方がいらっしゃいます。だったら「僕で良ければお手伝いしますよ!」って気持ちです。幸い、大阪では数々の低予算番組をやってきましたし、地方局ならではの悩みも数多く対面し、乗り越えてきました。役に立てるアイディアも割と持ってるつもりですし、地方のやる気のあるディレクターさんのパワーを僕の知ってる知恵で後押しさせて頂きたい!と思っています。

 地方局から「水曜どうでしょう」や「ゴリパラ見聞録」みたいな番組も生まれていますもんね。

 そうなんです!今やTVerとかで地方の番組が簡単に全国で見られる時代ですし、大化け出来る可能性は昔より遥かにありますからね。大阪で「ロケみつ」って番組を担当していたんですが、まさに低予算で始めたんですが、上手く火が付きまして、どんどんと地方番販が決まって、ほぼほぼ日本全国で見られる状況になったんで「面白いモノを作れば、地域とか予算とか関係ない!」っていう実体験があるので、余計に地方に携わりたいんですよ。「諦めるのは早いです!」って、「地方の強みがあるんです!」って、言いたいんです。もうノーギャラでもいいのでやらせてください!って感じです。

 小林さんのキャリアでその熱量は凄いですね。ノーギャラでもいいって。

 そもそも、地方には「番組作りに放送作家を入れる」という仕組みがないですし、元から雇う予算もないんです。地方じゃ、今も作家なんていなくても番組は作れていますから、作家は「要らないもの」なんですよ。だけど、ウォシュレットみたいなもんで無くても大丈夫だけど、体感したらこんなに良かった!って感じると思うので、まずは試してほしいんです。急に全く知らない大阪の作家が地方局に行って「アイディア出すからギャラよこせ!」みたいなのはおかしいと思うんです。小さなネジ工場の人がトヨタに「うちのネジ、1度使ってみてください。あ、お金は貰いますけど」って言っても「は?」じゃないですか。タダでいいんでお試ししてもらって、それでイヤなら僕に価値がなかったって事なんで。

 なるほど、分かりやすいです(笑)具体的にどんなイメージなんですか?

 例えば、現状の番組を見て、改善案や新提案なんていくらでもします。OA見て感想や改善点を言うのは作家の大事な仕事の1つだと思うのですが、地方は客観的に番組の感想を言う立場の人が少ないので意外な点を指摘出来ますし、刺激にもなると思うんで体感して頂きたいですね。

名前小林 仁
こばやし ひとし
出身地京都市
生年月日1971年2月28日
主な担当番組– 明石家電視台
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– 真夜中市場
など

Q:仕事を始めてから1番衝撃を受けた放送作家は?

●東野ひろあきさん
●樋口卓治さん


 師匠である東野さんはどんな方なんですか?

 放送作家として「スピード」と「バランス」が優れている方だと思いますね。あと、放送作家としてはもちろん、人間的にも僕は凄く好きですね。

 バランスっていうのはどういうところですか?

 自分のやりたいこととディレクターのやりたいことのすり合わせがうまいんですよね。放送作家って我を通し過ぎてもダメじゃないですか?あくまでディレクターのやりたいことをどうやって具現化するかが放送作家の仕事じゃないですか?

 そうですよね。確かにそこのバランス感覚が絶妙な方っていらっしゃいますね。

林 そして、何よりも書物や提出物が早いです。仮に同じ品質ならスピードが早い方が優位ですもんね。後は脚本を書けるって所も作家としては羨ましいですね〜。

 あと、アンケートで書かれている樋口さんは東京でやられている放送作家の方ですけど、何の番組でご一緒されたんですか?

 13年ほど前に毎日放送制作で、全国ネットで19時台にやっていた「ランキンの楽園」という番組があったんですけど、そこでご一緒させてもらいました。

 どんなところが印象に残ってますか?

 当時、大阪では放送作家がVTRのプレビューをするという文化があまり無かったので、「放送作家がVTRチェックしてココまで色々言うんだ!?」って衝撃受けたんですよね。プレビューに同席させてもらって、かなり色々と勉強になりましたね。

 これ今回の取材で1番聞いてみたかったんですけど、東京と大阪でテレビの作り方ってどんな違いがあるんですか?

 そうですねぇ…僕も東京の番組に関わった経験はほとんどないんで、明確には言えないし、あくまで僕個人の感想ですけど…

 全然大丈夫です。

 これは芸人さんもみんな言うベタなやつですけど、まず制作費が全然違います(笑)

 あ~、それはみなさんおっしゃいますね(笑)

 「ディレクターが何日も編集所で泊まり込んで」とか聞きますけど、僕らからしたら「そんなに何日も編集所を押さえられるのはお金があるからですよ」って思いますよね(笑)プレビューして「この画ないの?じゃあ撮ってきて」っていうのもやっぱりお金があるから出来ることですし。あと演者さんの楽屋のお弁当、3種類もいらないでしょって思います(笑)

 それはホントにそう思いますね(笑)まあ、弁当3種類は一部のお金ある番組だけでしょうけど。

 あとは視聴率良かったからって会議で叙々苑の弁当が出るとか、プリン出るとかも大阪は無いですし(笑)

 今は東京もそんなにないと思いますけど(笑)

 あれ?そうなの?東京の番組の印象、随分偏ってるのかな?あと、これも予算の違いかもしれないですけど、東京の番組って、スタジオ収録時のサブ出しで演者さんに見せたVTRの内容を、オンエアまでにかなり編集して、VTRの内容が結構変わることがあるって聞くんですけど、それは大阪には無い文化だと思いますね。スタジオで演者さんに見せるのがゴールという意識なんで。「そこから変えんの!?」って思っちゃいますね。

 あ~、度合いにもよりますけど、確かにサブ出しとオンエアのVTRが別物っていうくらい違う番組もあるって聞きますね。

 それは、かなりビックリしますね。それも編集所を何日も押さえられるお金があるから出来ちゃう事だと思うんですよね。

 他は何かありますか?

 そうですねぇ…視聴率への意識はやっぱり東京の方がシビアな気がします。大阪局の編成は視聴率が悪くても、東京よりは局も粘ってくれますね。東京は視聴率悪いと見切りつけるのが早いですよね。オンエア後の会議でも、おそらく東京ほどは視聴率の分計を分析したりはしていないです。「あそこ数字落ちてたけど、まあ面白かったからええよな」っていう空気がまだある気がしますね(笑)

 あ~、そうですか。もちろん、東京の番組でも総合演出とかプロデューサーによって、その辺の空気は全然違うと思いますけど。

名前小林 仁
こばやし ひとし
出身地京都市
生年月日1971年2月28日
主な担当番組– 明石家電視台
– ごぶごぶ
– あさパラ!
– 真夜中市場
など

Q:自分がディレクターだったら放送作家は誰を呼ぶ?

●たむらようこ
●沢野緑
●友光哲也

Q:仕事を始めてから1番衝撃を受けたディレクターは?

数々、先輩のディレクターさんたちには影響も受けましたが
一緒にガッツリ組んでモノ作りをして切磋琢磨した関係で言うなら
MBSの森貴洋ディレクター(現在はP)

Q:テレビ史上、最高の企画だと思うのは?

●幸せ家族計画
●めちゃイケ「濱口ドッキリ(生放送・大学受験)」
●サタデープラス「いきなりかあちゃん弁当」〜母が書いた手紙を息子が朗読
●ゴッドタン「ネタギリッシュナイト」


 このMBSの森さんという方は?

 当時、「ロケみつ」という番組の総合演出だったディレクターですね。今は「痛快!明石家電視台」のPでご一緒させてもらっています。

 桜 稲垣早希さんがブレイクした番組ですよね。どんなディレクターですか?

 ものすごく理論派ですね。感覚で考えるんじゃなくて、めちゃくちゃ先まで計算してロケも編集もやるディレクターだと思います。ロケも下調べとかすごく入念ですし、ナレーションの言い回しもかなり厳しいですね。下につくADが大変なディレクターだと思いますよ(笑)

 放送作家目線で会議で見ていて、そう思うディレクターっていますよね(笑)「ADさん大変だろうな~」っていう。資料作りとか段取りとかめちゃくちゃ細かい人いますもんね。総じてそういう人は優秀ですけど。

 そうなんです。かなり優秀でした。ディレクターと放送作家って相性だと思いますけど、僕はすごく森さんとは相性が良かったと思っています。向こうはどう思ってるか分からないですが(笑)「ロケみつ」は、最初は視聴率的に瀕死だった「なまみつ」のリニューアル要員として急遽2人で担当して、ゼロから番組を考え直して、少ない予算で必死で考えてやったら、話題になって、視聴率もいい結果になり、放送される局も増えましたから、自分としてはかなり思い入れの深い番組です。攻めたアイディアを提案しても精神は残し、キチンと現実に落とし込んだりするのは素晴らしかったですね。

 具体的に衝撃を受けたことって何ですか?

 「ブログ旅」ってロケ企画はシーズン①が関西縦断、シーズン②が四国一周、シーズン③が西日本横断だったのですがシーズン④でヨーロッパ横断したんです。「ヨーロッパに行きたい!」と言ったのが森さんでした。関西のローカル深夜の低予算番組で月1〜2回ペースでヨーロッパロケをするなんて発想になかったです。「電波少年」は演者もディレクターも行ったっきりでしょ?それは理解できるんですけど、コッチは様々な都合で、演者もディレクターも5日くらいロケして、帰ってきて、また行って続きからロケ再開って、行ったっきりよりも逆にしんどかったと思うんです。帰ってきて編集もするし体力的にもディレクター的にもこんなの前代未聞ですよ。コレを「やりたい!」って言い出して実行してましたから、これは衝撃的でした。

 そんな形式で番組作れるんですね〜

 でも、この苦労が報われて「ロケみつ」は関西ローカル深夜番組だったのにTBSを含む日本のほぼ全域で流れて、最終的には海外で賞を獲るところまで行きました。その全てを演出していたのが森さんです。

 あ~、その体験が地方局から番組を当てたいという熱量につながってるんですね。

 そうかもしれないです。

 小林さんは関西で色々なテレビマンとお仕事されてきたと思いますが、他に印象に残っている方はいますか?

 今、一緒にやらせてもらってる番組のディレクターさんは本当に皆さん優秀で、特に局の若いディレクターさん達「ごぶごぶ」のMBS平岡さん、「キメツケ!」のKTV塩見さん、「あさパラ!」のYTV上田さん、「チャント!」のCBC槌田さんなどは将来が楽しみです。先輩の方だと今の毎日放送の社長の三村景一さんっていう方は、放送局の社長としては珍しい「制作マンが長かったタイプ」なんです。関西では有名な「ちちんぷいぷい」という番組を作られた方なんですよ。その三村さんがおっしゃった言葉を今でも大事にしているんですけど「作家はめちゃくちゃなことを言ってくれ」と。

 ほぉ。

 「会議で話し合った結果、無難なレベル50になるのはいいけど、最初から作家がレベル50のアイデアを出さないで欲しい」と。「最初の案はレベル100の無茶なことを言って欲しんだ」と。「50はもちろん、60や70はディレクターでも思いつく。ディレクターが思いも及ばない、むちゃくちゃ言いよるな〜!でもオモロイな〜!を言うてくれ!それをディレクターが泣く泣く削って現実レベルにするんや」と、おっしゃっていて、「なるほど〜!」と思いましたね。最初から成立を考えて無難な案を出すのはやめようと。

 キャリアを積めば積むほど無難に成立してしまってる案を出すようになってしまうところはありますよね。正直、自分も心当たりあります。

 チーフ作家になると、最終的にケツ拭く役目もあるので無難な思考もよく使うのですが、ふと、三村さんの言葉を思い返して自分に言い聞かせてますね。あと、これも大阪かも知れませんが、ある先輩作家が言ってた「会議は笑わせてなんぼ」っていう意識も持っているつもりです。若い頃は「自分が前に同じような案を出したのに、なんであの先輩が出したら通るんや。宿題は無記名にしてくれよ」とか思ってたんですけど、今となっては「この人が言ったら面白いと感じる」と思わせなきゃいけないって思うようになりましたね。「同じこと言ってもこの人が言ったら面白そうに感じる」って凄いことだと思うので。

 それは耳が痛い言葉ですね(笑)たぶん、放送作家はみんな若い頃に、「宿題、無記名にしてくれ!」って1度は思ったことあるはずですから(笑)そう思ってるうちはダメなんでしょうね~。

 結局は「人」なんですよね。あと、会議で言うと、若い頃には先輩から「宿題をプレゼンする時、書いた内容をそのまま読むな」っていうのは、よく言われました。「下見てしゃべるな。漫才師が下向いて漫才やるか?お客さん見てるやろ?」と。会議の進行をしているプロデューサーとか総合演出の反応を見ながら「ここもっと話すべきやな」とか「このネタは興味なさそうやな」って判断して、プレゼンを変えていかなきゃいけないっていう。そういう教育は色んな先輩からしていただきましたね。

 勉強になります(笑)

名前小林 仁
こばやし ひとし
出身地京都市
生年月日1971年2月28日
主な担当番組– 明石家電視台
– ごぶごぶ
– あさパラ!
– 真夜中市場
など

Q:今後、関わってみたい番組は?

●紅白歌合戦
●お笑い芸人によるマニアックなネタ作りの裏話に特化した番組

Q:今後の放送作家としての展望や人生の目標は?

●同世代向けの番組を同世代のスタッフと出演者で作りたい
●東京の一線級の作家さんと一緒に関西ローカルを担当してみたい

Q:まだ出来ていないけどいつか仕事をしてみたい芸能人は?

●桑田佳祐さん
●神田沙也加さん

Q:放送作家になってから1番嬉しかったことは?

●番組スタッフロールに「企画・構成」で出た時
●電車の中で自分の担当番組の話を若者が話していた時
●自分の書いた台本でちゃんと笑いになった時


 今後の展望として「同世代向けの番組を同世代のスタッフ・出演者で作りたい」というのは?

 もちろん、テレビ界は若い人にチャンスをあげていかなきゃいけないし、世代交代は絶対にすべきで、「老兵は去るのみ」なんですけど…今後、テレビを始めとした映像メディアがもっともっと専門チャンネル化していくうえで、50代・60代に向けたバラエティー番組というものも、当然あっていいと思うんですよね。

 はい。

 やっぱり50代60代に向けた番組は50代60代のスタッフ、50代60代の出演者で作ればいいと思うんです。そういう場所があれば、大御所と言われるようなディレクターや放送作家も、今の番組から離れてそういう所に活躍の場を移せるし、新陳代謝も起こりやすくなると思うんですよね。おじさんが若い人向けの番組を作るっていうのは良くないと思うし、若いディレクターは同世代の放送作家と仕事をした方がいいと思いますからね

 なるほど。確かに「50過ぎて仕事無くなった放送作家は何してるんだろう?」って、けっこう放送作家で集まった時に話すんですよ。年齢を重ねてもそういう場があると、若い人にとってもいいことっていうことですね。

 「いつまで現役やねん!」「さっさと若い世代に場を明け渡せよ!」とかいう声も聞くようになってきましたが、人生100年時代になって、テレビ放送が始まって70数年、昔とは状況も変わってきているので、この世界から退くんじゃなくて、この世界の中の違う場所にずれるみたいなこともありえるんじゃないかな〜とか、考えたりしますね。

 なるほど。では、そろそろお時間なのですが、最後に改めて言っておきたいこととかありますか?

 やっぱり、今、1番言いたいのは先ほども言った、もっと地方の番組がやりたいということですね。これからはますます地方の時代になると思っています。地方にも面白いディレクターがたくさんいらっしゃるので、そういった方々のお手伝いがしたいです。そして、芸人さんが地方局で番組を始めるきっかけになりたいな〜!とも思います。ぜひ、ノーギャラでいいので使っていただきたいです(笑)

 やはりそこの熱量が高いんですね。

 「自分の知らない世界を知りたい」「まだ会ったことのない人と仕事がしたい」という欲もあるんですよね。例えば、地方によって視聴率を獲るテッパン企画が違ったりするんですよ。広島じゃ、「夕方ワイドの料理コーナーがすごい数字伸びる!」とか、「ロケで釣り企画やったら大コケしない!」とか、大阪じゃ知らない常識ですし、おそらく地方ごとに違うだろうから、そういうのとかも面白いですよね。

 へぇ~。

 是非、このページを見て興味を持たれた地方局の方は気楽に連絡くださいませ!これも「放送作家名鑑」の正しい使い方の1つですよね?

 そうですね。それにしても売り込みの熱が凄いですね!(笑)

 アンケートで「東京の一線級の作家さんと仕事したい」と書いたのも、やはりまだまだ学びたいという気持ちがあるからですかね。

 好奇心が強いんですね。僕もいつか大阪の番組をやらせていただきたいです(笑)

 分かりました。それはいつか是非やりましょう(笑)

名前小林 仁
こばやし ひとし
出身地京都市
生年月日1971年2月28日
主な担当番組– 明石家電視台
– ごぶごぶ
– あさパラ!
– 真夜中市場
など

【取材後記】

この放送作家名鑑を立ち上げて1か月ほど経った頃、
サイトの問い合わせフォームからメールが届いた。

メールの件名にはこう書かれていた。
「面白いので参加させていただけませんか?」

その人の名前を検索してみると、
関西の有名番組を多数担当している放送作家だった。

それが小林さん。

内容は伏せるが、
メールの文面を見て素直に凄いなと思った。

年齢は48歳。
僕より一回りも年上。
担当番組を見れば、十分に放送作家として地位を築いていることが分かる。

その人がまるで昨日今日テレビ業界に入った新人放送作家のような熱い文面で、
放送作家名鑑について称賛してくれた。

48歳の僕はそんな熱い気持ちを持てているだろうか?
48歳の僕はそんな行動力を持てているだろうか?
48歳の僕はこんなに後輩を認められるだろうか?

現時点では自信がない。

しかし、心のどこかで
「まあ、こういうのは得てして実現しないよなぁ。大阪の人だもんなぁ」と思っていたのだが、その予想は見事に外れ、2か月後、きっちり取材は実現した。

メールの文面から、勢いバリバリの関西人かと思っていたのだが、
お会いしてみるとめちゃくちゃ丁寧で穏やかな方だった。

それでいて、メールの文面で感じた熱さはそのまま。

「僕も深田さんと同じで放送作家という生き物が好きなんですよ」

年齢も、職場も、育った環境も違うけど、
挨拶冒頭のこの言葉ですぐに親近感を覚えた。

間違いなく、放送作家名鑑をやっていなかったら出会えていなかった人。
放送作家名鑑をやってよかったと思わせてくれた人。

今後、小林さんが地方からヒット番組を作ってくれたら、
より一層そう思えるので
地方のみなさん、宜しくお願い致します。

ノーギャラでいいらしいですよ。

深田憲作

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