大竹将義 独占インタビュー

名前 | 大竹 将義 おおたけ まさよし |
出身地 | 茨城県 |
生年月日 | 1983年9月27日 |
主な担当番組 | – JO1のオールナイトニッポンX – 私立恵比寿中学放送部 – 壇蜜の耳蜜 など |
アンケートへの回答をもとにインタビュー取材
Q:放送作家になったきっかけは?
中学時代、ボキャブラブームに直撃。爆笑問題を好きになり、掘っていった結果ラジオへ。ネタの投稿をしながら放送作家を知る。放送作家になりたいと思ったものの、なり方が分からず調理士の専門学校へ。しかし料理人向いてないな~と思い、今度こそ放送作家になろうとお金を貯めて上京。日テレの作家セミナーへ。しかし箸にも棒にも引っかからず、当時読まれていた雨上がり決死隊さんのラジオに毎週100ネタ投稿するとノルマを課して常連ハガキ職人に。さらに宮迫さんの出待ちをして「放送作家になりたい」と直訴。しかしそこでも叶わずどうしたもんかと思っていたら、日テレのセミナーに一緒に行っていた同期から放送作家事務所というものを知り、履歴書を送付。クイズを作る作家の仕事をもらう。
Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?
・TBSラジオ 爆笑問題カーボーイ
・TBSラジオ 極楽とんぼの吠え魂
・水曜どうでしょう
深田 そもそもは爆笑問題さんのラジオのハガキ職人だったんですね?我々の世代だとナイナイさんのオールナイトニッポンのハガキ職人が多いイメージなんですが両者のハガキ職人の違いはあるんですか?
大竹 僕は茨城出身なんですが、住んでいた地域がナイナイさんのラジオの電波が入らなくて(笑)。それでナイナイさんのオールナイトニッポンは聴いていませんでした。
深田 爆笑さんのラジオを当時聴いていた人にとっては大竹さんのペンネームはみなさんに認知されている感じなんですか?
大竹 ペンネームではなく本名でやってました。手前みそですが読まれるハガキの1枚目か2枚目の常連でしたし、ある年は採用数2位になったこともあります。でも、この業界に入ってから「あの人ですよね?」と言われたのは2人だけですけどね(笑)。学校でもクラスでそのラジオを聴いていた人がいなかったんでそれによって人気者になるってこともなかったですね(笑)。
深田 調理師の専門学校に行きながらも料理人にはならなかったんですね?
大竹 いざ学校に入ったら全国から料理好きが集まってきていて「自分はそんなに料理好きじゃないんだな…」と思ったんですよ。あとは在学中にベルギー料理屋でバイトしていたんですけど、そこの社員さんが全然楽しそうじゃなくて(笑)。これは違うなと思って、卒業したら日テレの放送作家セミナーに行くことにしたんです。みんなが就職先で料理店を書いている中、僕だけ「日テレ学院」と書いていたので「何しにこの学校来たの?」って言われました(笑)。
深田 僕も日テレ学院出身なんですけど、その後にまたラジオでネタを投稿するようになったんですか?
大竹 放送作家になりたいけどなり方が分からない。そんな状態の時に聴いていた雨上がり決死隊さんのラジオの放送作家が松本真一さんと、当時、世界のナベアツとしてブレイクし始めていた渡辺鐘さんだったんです。鐘さんはこれから芸人として忙しくなるだろうからそのラジオの作家の枠が1つ空くんじゃないか?と勝手に思って。それで毎週100ネタ投稿するのを自分のノルマとして課して、放送終わりの宮迫さんの出待ちも始めたんです。ラジオ終わりの芸人さんを出待ちして作家になった、みたいな話も聞くじゃないですか?それで自分もやってみようと思って。ネタもそれなりに読まれていたので名前を伝えればわかってもらえるだろうと思いまして。
深田 ラジオ終わりの芸人さんを出待ちするってたまに聞きますけど、それで話を聞いてくれるものなんですか?
大竹 カンペみたいに紙に僕の名前を書いて、車に向かって出したら宮迫さんが窓を開けて対応してくださいました。もちろん、そんなに長くは話せないですけどいい人でしたね。何回かやったんですけど、宮迫さんは絶対に無視はしないんですよ。
深田 それってド深夜ですよね?
大竹 そうです。僕はその時、茨城に住んでいたので茨城から毎週終電で東京に出てきて、始発で帰るというのを毎週、2か月くらいやったと思います。
深田 それでどうなったんですか?
大竹 毎週100個ネタを出していたのとか、宮迫さんを出待ちしていたのも番組のスタッフさんに伝わったんだと思うんですけど、そのラジオのディレクターさんからある日電話がかかってきて「見学来てみる?」と。それで見学に行かせてもらったんですけど、それでも仕事には繋がらなかったんです。それで万策尽きたと思っているところに日テレ学院のセミナーで同期から連絡が来て「僕がお世話になっている事務所で放送作家を募集してるから応募してみれば?」と言ってもらって。それに応募して事務所に入れてもらって、仕事を貰えるようになりました。
深田 その同期って誰ですか?
大竹 デーブ八坂という作家です。
深田 あ、八坂さんと同期なんですか!?確かに僕も八坂さんと同い年ですし、大竹さんも同い年ですもんね。今はラジオがメインとのことですけど、どのタイミングでラジオの仕事が増えたんですか?
大竹 最初はテレビのリサーチもしていたんですけど、自分は元々ラジオ好きですし、テレビよりラジオの方が向いているんじゃないかなと思って。それである時、ラジオ日本でやる落語家さんのラジオのオファーをもらって。そこからラジオの仕事が増えていきましたね。
深田 ここから学生時代について聞かせていただきますね。大竹さんは学生時代はどんなキャラだったんですか?
大竹 小・中・高でキャラがちょっとずつ違うんですけど。運動神経もよくないし、勉強もできないので小学生の頃はイケてない存在だったと思います。中学2年の時に生徒みんながアルバイトで働いて、その勤務内容を体育館でみんなの前でプレゼンする、という行事があったんです。他の生徒はスライドを使ってプレゼンしていたんですけど、僕は友だちと漫才でプレゼンしたんです。そしたらそれがウケたんですよね。今思えば爆笑問題さんの漫才のパクりをやっていただけなんですけど(笑)。それで「面白い奴」みたいな認知はしてもらいました。中3の時にもみんなの前で漫才をやってそれもウケて。中学時代はそんな感じだったんですけど、高校では入学早々から見事に友だち作りに失敗して、しばらく友だち0人だったんですよ(笑)。中学の時は面白い奴とされていたので悔しかったですけど、高校で友だちいないって爆笑問題の太田さんと同じ境遇だなとポジティブには考えるようにしてました。それで高1の2学期まで友だち0人だったんですけど、国語の授業で詩を暗記してみんなの前で読むという課題が出されたことがあって、その発表の時に詩の内容を先生のイジリに変えて読んだんです。友だち0人の僕が(笑)。
深田 それは思い切りましたね(笑)。
大竹 友だちも0人でほとんどしゃべらないキャラの奴がそんなことをしたからみんなビックリしたとは思うんですけど、これがウケたんですよ。そこから友だちも出来て学校生活も楽しく過ごせました。
深田 それは見事にチャンスを掴みましたね。
大竹 だから学生時代に「笑いに救われた」という体験はしてるんですよね。
深田 これはいい話ですね~。