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大竹将義 独占インタビュー

名前大竹 将義
おおたけ まさよし
出身地茨城県
生年月日1983年9月27日
主な担当番組– JO1のオールナイトニッポンX
– 私立恵比寿中学放送部
– 壇蜜の耳蜜
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

中学時代、ボキャブラブームに直撃。爆笑問題を好きになり、掘っていった結果ラジオへ。ネタの投稿をしながら放送作家を知る。放送作家になりたいと思ったものの、なり方が分からず調理士の専門学校へ。しかし料理人向いてないな~と思い、今度こそ放送作家になろうとお金を貯めて上京。日テレの作家セミナーへ。しかし箸にも棒にも引っかからず、当時読まれていた雨上がり決死隊さんのラジオに毎週100ネタ投稿するとノルマを課して常連ハガキ職人に。さらに宮迫さんの出待ちをして「放送作家になりたい」と直訴。しかしそこでも叶わずどうしたもんかと思っていたら、日テレのセミナーに一緒に行っていた同期から放送作家事務所というものを知り、履歴書を送付。クイズを作る作家の仕事をもらう。

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は

・TBSラジオ 爆笑問題カーボーイ
・TBSラジオ 極楽とんぼの吠え魂
・水曜どうでしょう


深田 そもそもは爆笑問題さんのラジオのハガキ職人だったんですね?我々の世代だとナイナイさんのオールナイトニッポンのハガキ職人が多いイメージなんですが両者のハガキ職人の違いはあるんですか?

大竹 僕は茨城出身なんですが、住んでいた地域がナイナイさんのラジオの電波が入らなくて(笑)。それでナイナイさんのオールナイトニッポンは聴いていませんでした。

深田 爆笑さんのラジオを当時聴いていた人にとっては大竹さんのペンネームはみなさんに認知されている感じなんですか?

大竹 ペンネームではなく本名でやってました。手前みそですが読まれるハガキの1枚目か2枚目の常連でしたし、ある年は採用数2位になったこともあります。でも、この業界に入ってから「あの人ですよね?」と言われたのは2人だけですけどね(笑)。学校でもクラスでそのラジオを聴いていた人がいなかったんでそれによって人気者になるってこともなかったですね(笑)。

深田 調理師の専門学校に行きながらも料理人にはならなかったんですね?

大竹 いざ学校に入ったら全国から料理好きが集まってきていて「自分はそんなに料理好きじゃないんだな…」と思ったんですよ。あとは在学中にベルギー料理屋でバイトしていたんですけど、そこの社員さんが全然楽しそうじゃなくて(笑)。これは違うなと思って、卒業したら日テレの放送作家セミナーに行くことにしたんです。みんなが就職先で料理店を書いている中、僕だけ「日テレ学院」と書いていたので「何しにこの学校来たの?」って言われました(笑)。

深田 僕も日テレ学院出身なんですけど、その後にまたラジオでネタを投稿するようになったんですか?

大竹 放送作家になりたいけどなり方が分からない。そんな状態の時に聴いていた雨上がり決死隊さんのラジオの放送作家が松本真一さんと、当時、世界のナベアツとしてブレイクし始めていた渡辺鐘さんだったんです。鐘さんはこれから芸人として忙しくなるだろうからそのラジオの作家の枠が1つ空くんじゃないか?と勝手に思って。それで毎週100ネタ投稿するのを自分のノルマとして課して、放送終わりの宮迫さんの出待ちも始めたんです。ラジオ終わりの芸人さんを出待ちして作家になった、みたいな話も聞くじゃないですか?それで自分もやってみようと思って。ネタもそれなりに読まれていたので名前を伝えればわかってもらえるだろうと思いまして。

深田 ラジオ終わりの芸人さんを出待ちするってたまに聞きますけど、それで話を聞いてくれるものなんですか?

大竹 カンペみたいに紙に僕の名前を書いて、車に向かって出したら宮迫さんが窓を開けて対応してくださいました。もちろん、そんなに長くは話せないですけどいい人でしたね。何回かやったんですけど、宮迫さんは絶対に無視はしないんですよ。

深田 それってド深夜ですよね?

大竹 そうです。僕はその時、茨城に住んでいたので茨城から毎週終電で東京に出てきて、始発で帰るというのを毎週、2か月くらいやったと思います。

深田 それでどうなったんですか?

大竹 毎週100個ネタを出していたのとか、宮迫さんを出待ちしていたのも番組のスタッフさんに伝わったんだと思うんですけど、そのラジオのディレクターさんからある日電話がかかってきて「見学来てみる?」と。それで見学に行かせてもらったんですけど、それでも仕事には繋がらなかったんです。それで万策尽きたと思っているところに日テレ学院のセミナーで同期から連絡が来て「僕がお世話になっている事務所で放送作家を募集してるから応募してみれば?」と言ってもらって。それに応募して事務所に入れてもらって、仕事を貰えるようになりました。

深田 その同期って誰ですか?

大竹 デーブ八坂という作家です。

深田 あ、八坂さんと同期なんですか!?確かに僕も八坂さんと同い年ですし、大竹さんも同い年ですもんね。今はラジオがメインとのことですけど、どのタイミングでラジオの仕事が増えたんですか?

大竹 最初はテレビのリサーチもしていたんですけど、自分は元々ラジオ好きですし、テレビよりラジオの方が向いているんじゃないかなと思って。それである時、ラジオ日本でやる落語家さんのラジオのオファーをもらって。そこからラジオの仕事が増えていきましたね。

深田 ここから学生時代について聞かせていただきますね。大竹さんは学生時代はどんなキャラだったんですか?

大竹 小・中・高でキャラがちょっとずつ違うんですけど。運動神経もよくないし、勉強もできないので小学生の頃はイケてない存在だったと思います。中学2年の時に生徒みんながアルバイトで働いて、その勤務内容を体育館でみんなの前でプレゼンする、という行事があったんです。他の生徒はスライドを使ってプレゼンしていたんですけど、僕は友だちと漫才でプレゼンしたんです。そしたらそれがウケたんですよね。今思えば爆笑問題さんの漫才のパクりをやっていただけなんですけど(笑)。それで「面白い奴」みたいな認知はしてもらいました。中3の時にもみんなの前で漫才をやってそれもウケて。中学時代はそんな感じだったんですけど、高校では入学早々から見事に友だち作りに失敗して、しばらく友だち0人だったんですよ(笑)。中学の時は面白い奴とされていたので悔しかったですけど、高校で友だちいないって爆笑問題の太田さんと同じ境遇だなとポジティブには考えるようにしてました。それで高1の2学期まで友だち0人だったんですけど、国語の授業で詩を暗記してみんなの前で読むという課題が出されたことがあって、その発表の時に詩の内容を先生のイジリに変えて読んだんです。友だち0人の僕が(笑)。

深田 それは思い切りましたね(笑)。

大竹 友だちも0人でほとんどしゃべらないキャラの奴がそんなことをしたからみんなビックリしたとは思うんですけど、これがウケたんですよ。そこから友だちも出来て学校生活も楽しく過ごせました。

深田 それは見事にチャンスを掴みましたね。

大竹 だから学生時代に「笑いに救われた」という体験はしてるんですよね。

深田 これはいい話ですね~。

てれびのスキマ 戸部田誠 インタビュー

名前てれびのスキマ 戸部田誠
てれびのすきま とべたまこと
出身地福岡県生まれ(静岡県育ち)
生年月日1978年3月23日
これまでのお仕事【書籍】
‐ タモリ学
‐ 笑福亭鶴瓶論
‐ 1989年のテレビっ子
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:今の仕事に就いたきっかけは?

ブログ「てれびのスキマ」がきっかけにポツポツと仕事をいただけるようになり、水道橋博士さんから「メルマ旬報」の立ち上げメンバーとして声をかけてもらったことで本格的にライターの活動を始めました。

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は

内村プロデュース

Q:テレビ史上、最高の番組だと思うの

アメリカ横断ウルトラクイズ

Q:今後、やってみたい仕事は

テレビ雑誌を作ってみたいです。


深田  この記事を載せるのが「日本放送作家名鑑」というサイトなんですけど、放送作家以外にも色々な人の話が聞きたくなってサイト内に別ページを作りまして、今回がその第1弾の記事です(笑)。よろしくお願いします。

戸部田 このサイトは凄くいいなと思って見せさていただいていたんですけど、僕なんかで大丈夫ですか?(笑)

深田  前々から気になる存在だったので1度お話を聞いてみたいと思っていたので、念願叶ってという感じです(笑)。今後はテレビに関わる人、ディレクターさんとかナレーターさんとか、音効さん、美術さん、カメラマンさんなどにも話を聞いてみたいなと思って。あとはテレビ周りだけじゃなく、YouTube周りの人でも話を聞きたい方にどんどんアプローチしていこうかと思ってまして。ちなみに名前の呼び方はスキマさんか戸部田さん、どちらがいいんですか?

戸部田 呼びやすい方で大丈夫です(笑)。

深田  では戸部田さんでいかせていただきますね(笑)。戸部田さんはテレビに関するコラムを書かれていたり、書籍を出版されたりするテレビライターとして活動されていますけど、今の仕事を始める経緯を聞かせてもらってもいいですか?

戸部田 僕は静岡出身なんですけど大学を卒業して静岡の郵便局に就職したんですね。大学は東京だったんですけど。就職したのが2001年なんですけど、2005年に郵便局の仕事の傍らでテレビについて書くブログを始めたんですよ。

深田  ブログにはどんなことを書いていたんですか?

戸部田 最初はテレビ番組の書き起こしですね。タモリさんのまとめとかも書いていましたけど。学生時代から「テレビ雑誌を作りたい」という思いがあったのでその手始めにという感じでブログを書き始めました。

深田  そのブログが徐々に人気が出始めたんですか?

戸部田 そうですね。ハテナブログでやっていたんですけど、たくさんの方にブックマークをしてもらえるようになりまして。当時はテレビ番組の書き起こしをしたブログがあまりなかったので目新しかったんだと思います。

深田  それで水道橋博士からオファーが来たと?

戸部田 はい、それをきっかけにプロのライターとして認知していただけるようになったと思います。その後もしばらくは郵便局の仕事は続けていたんですけど。

深田  完全にライターに移行するきっかけはあったんですか

戸部田 僕が初めて出した書籍が『タモリ学』という本なんですけど、平日は郵便局の仕事で執筆の時間がとれないので土日を使って作業していたんですね。だから執筆が思うように進まなくて。その執筆をしているタイミングで樋口毅宏さんという方が『タモリ論』という本を出されてそれがヒットしたんです。内容が僕の書いているのに近かったのもあって焦りが出てきて「これはライター専業でやらないとスピード的にもクオリティ的にもヤバいぞ」と思って、郵便局の仕事を辞めてライターに専念することにしたんです。

深田  そのタイミングで上京したんですか?

戸部田 いえ、ライター専業になってからもしばらくは静岡でやっていました。当時は取材とかがあまりなかったので東京にいなくても仕事は成立していたので。

深田  上京したのはいつなんですか?

戸部田 2015年ですね。元々、コミュニケーションに苦手意識があって取材ものの仕事は断っていたんですけど、ある時、星野源さんを取材して記事にしてくださいという仕事のオファーがきまして。星野源さんのことは大好きだったのでこれはさすがにやりたいなと思ってお受けしたんです。それでいざ取材させてもらったらすごく楽しくて。それまでも東京に行きたいという思いは心の隅に持ちながらも踏み切れずにいたんですけど、星野源さんの取材をきっかけに取材の仕事も楽しくできそうだなと思ったのと、東京でいい物件が見つかったというのもあって上京することにしました。

深田  星野源さんが上京のきっかけってなんかカッコいいですね(笑)。そう考えると拠点を東京にしたのはけっこう最近なんですね。というかコミュニケーション苦手なんですか?僕の中では勝手にライターさんって社交的な方が多いのかと思っていたんですけど。

戸部田 ライターはコミュニケーションが苦手な人の方が多いと思いますよ(笑)。

深田  へぇ~、そうなんですね。では学生時代にどんな子どもだったかっていうのをお聞きしていいですか?

戸部田 クラスの端っこにいたタイプですね。内向的で外でも遊ばないし、友だちもそんなにいないし、学校から帰ったらずっとテレビを見ている子どもでした。

深田  テレビを好きになったきっかけはあるんですか?

戸部田 これというきっかけはないんですよね。子どもの頃から気づいたら好きでした。バラエティ専門に思われがちなんですけど、子どもの頃からドラマやドキュメンタリーも好きでよく見ていました。

深田  生粋のテレビっ子なんですね。ライターになる予兆というか、そういう源流はご自身ではどこにあると思います?

戸部田 高校の頃に格闘技にどっぷりハマったんです。南原さんがやられていた『リングの魂』という番組をきっかけにUFCを知って、そこからパンクラスが好きになって。アンケートの「人生で1番好きだったテレビ番組は?」で『内P』と書きましたけど『リングの魂』とどっちを書こうか迷いましたから。大学時代は格闘技のビデオをレンタルして見まくっていたんですけど、その流れで格闘技雑誌の記者になりたいと思うようになったんです。ただ、出版社に受かるのは無理そうだなと思っていたので現実的には考えていなかったんですけど。その頃に「いつかテレビ雑誌を作りたい」という思いも生まれていたと思います。そんな思いを持ちつつ郵便局に就職した感じですね。

深田  テレビ雑誌を作りたいというのは具体的にはどういう思いなんですか?

戸部田 アイドル雑誌とか芸人雑誌とかはあるのにテレビ雑誌って存在しないじゃないですか?クイックジャパンでテレビ特集はやったりしていますけどテレビ雑誌というものはないんですよね。だから週刊プロレスのテレビ版を作りたいんですよ。

深田  あ~、確かに言われてみればテレビジョンとかはあるけど、テレビ雑誌ってないですね。

戸部田 そうなんですよ。その雑誌を通して世の中の人たちに面白い番組や、優秀なディレクターや放送作家といった裏方スタッフを知ってもらえたら嬉しいなと思うんですよね。クイックジャパンのテレビ特集が毎月出来たら最高だなという感じですかね。

深見シンジ 独占インタビュー

名前深見シンジ
ふかみしんじ
出身地埼玉県さいたま市岩槻区
生年月日1996年5月18日
主な担当番組– ウケメン
– Do8
– マリマリマリー
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

深夜ラジオとラジオのイベントがきっかけです。

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は

レッドシアター
ざっくりハイタッチ
はねとび
テラスハウス
嵐の宿題くん


深田 放送作家になろうと思ったきっかけからお聞きしていいですか?

深見 高校生の頃から兄の影響で深夜ラジオをよく聴くようになって、バナナマンさんの「バナナムーン」、おぎやはぎさんの「メガネびいき」、山里亮太さんの「不毛な議論」とかをよく聴いていたんですよ。ラジオで放送作家のオークラさんの存在を知ったことで、放送作家という仕事があることを知りました。ただ、その時はすぐに放送作家になろうと思ったわけではなくて。大学生の時に山里さんのラジオが主催した、リスナーが書いた漫才を芸人さんがやってくださるイベントがあったんですけど、そこに僕も漫才を書いて送ったら採用されて南海キャンディーズさんにやっていただけたんですよ。それをイベントで生で見た時に人生1番くらいに感動して。これを仕事に出来たら最高だなと思いまして。

深田 それは震えますね。

深見 それでもまだ完全に放送作家になろうとは思ってなくて。英語の先生になるつもりで法政大学に通っていたんですけど、翌年に同じイベントで「もう1回ネタが採用されたら放送作家を目指してみよう」と思って、ネタを送ったらそれが採用されて。それで放送作家を目指してみようとなりました。それが大学4年の時ですね。

深田 凄いですね!運命的というか。それで放送作家になろうと思ってからはどういう動きをされたんですか?

深見 大学4年の時にワタナベエンターテインメントの養成所の作家コースに入りました。

深田 1つ前に取材させてもらったダンプさんの1年後輩なんですよね?

深見 そうです。スクールに通っている時に出会いました。

深田 そこからどうやって仕事につながっていったんですか?

深見 初仕事は四千頭身のYouTubeですね。そこで自分がコントを書きたいということをアピールしていたら当時の四千頭身のマネージャーさんに色々な現場に連れていってもらったり、仕事を紹介してもらえるようになりました。ダンプさんにもリサーチの仕事を紹介してもらえるようになったり。あとは放送作家のカツオさんのトークイベントに行っていたら、カツオさんが企画打ちに呼んでくださるようになりました。

深田 深見さんもカツオさんと繋がってるんですか!?

深見 ダンプさんと知り合ったのもカツオさんがやられているトークイベントだったんですよ。僕もあのイベントに企画書を持っていって見てもらっていたんです。

深田 ちなみに、僕は深見さんとはよゐこ濱口さんのライブで初めて会いましたよね?(2019年4月20日開催「よゐこ濱口をよく知らない4人の若手放送作家たちに刺激を受けた4人の中堅作家たち」)そこで裏方スタッフとして舞台上のスクリーンに出すパワポを操作していたのが深見さんだったんですよ。だから今回、深見さんのやられている話題のYouTubeチャンネル「マリマリマリー」を見て、取材オファーをさせてもらったんですけど、深見さんの名前を見て「あのパワポの子か!?」って驚いたんですよ(笑)。その後も特番で1回ご一緒はしてますけど。

深見 嬉しいです(笑)。あのライブの時はまだ放送作家1年目ぐらいの時だと思います。

深田 「マリマリマリー」のことはのちほどお聞きするとして、学生時代の話を聞いていいですか?どんな感じの子どもだったんですか?

深見 まあ、ごくごく普通の子って感じですね。イケてる生徒とイケてない生徒のちょうど中間というか(笑)。中学の時は野球部のキャプテンだったんですけど、弱小チームだったんで決してイケてる存在でもなく(笑)。高校は軽音部でした。

深田 テレビとかお笑いはいつから好きだったんですか?

深見 中学生の頃に「爆笑レッドシアター」は好きでよく見てました。高校に入ったぐらいの時期に、兄が部屋で深夜ラジオを爆音で聴いていて、それを聴いて面白いと思って聴くようになりました。

深田 ちなみに先生になろうとしてたっていうのは何の教科ですか?

深見 英語ですね。実は未だに先生はやってみたいと思っていて、45歳とか50歳ぐらいになったら本気でやってみたい気持ちはありますね。教育実習が凄く楽しかったんで。

深田 分かります。僕も体育教師の教員免許を取ってるんですけど、確かに僕も未だに先生をやってみたい気持ちありますね。教育実習とか楽しいんですよね。きつかったけど。深見さんって僕との共通点いくつかあるんですよね。野球部出身で教員免許持ってて、あとは欅坂46好きでしたもんね?前にテレビ局のエレベーターで急に「僕も欅坂好きなんです」って言ってきたの覚えてますもん(笑)。

深見 そうですね。確かに共通点ありますね。僕は元々乃木坂46が好きで、それで欅坂46も好きになったっていう流れなんですけど。

深田 それも後ほど軽く聞きますね(笑)。

ダンプ 独占インタビュー

名前ダンプ
だんぷ
出身地北海道帯広市
生年月日1996年8月2日
主な担当番組※YouTubeチャンネル
– 四千頭身
– 丸山礼
– 土佐兄弟
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

高校時代、男子校で変な奴が周りに多かったので、
大人になっても変な人といっぱい友達になりたい!と思い、
普通の人生ではなくどうにかして線路を外れないと!と模索して
そのとき好きだった、お笑いやテレビに携わろう!に至りました。

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は

ワールドダウンタウン
リンカーン
万年B組ヒムケン先生
ガキの使いやあらへんで
水曜日のダウンタウン


深田  ダンプさんは実家がお医者さんだという話を聞いたんですが?

ダンプ そうですね。北海道の十勝・帯広という田舎出身なんですが、そこで父が歯医者をやっていました。家族構成は父・母・僕・妹の4人家族です。

深田  では親御さん的にはダンプさんにその歯医者を継がせたいという感じだったんですか?

ダンプ 親はそうだったと思います。中高一貫校に通っていたんですがそこは「医学部進学率日本一」を謳うような学校でしたから。中学に入学するときは上から3番か4番の成績で入ったんですけど、高校を卒業するときは学年最下位でしたからね(笑)。結局、大学にも行かずに上京して今の仕事を始めました。なので親にはちょっと申し訳ないという気持ちはありますね。

深田  高校卒業してからどういう経緯で作家になったんですか?

ダンプ 親には「浪人して大学に行く」と言って東京に出てきたんですけど、1年くらいは何をやろうかなと考えながらフラフラしてた感じですね。お笑いのライブや事務所の養成所に見学に行っていたんですけど、その頃に同世代の四千頭身とかのライブを見て「自分には芸人は無理だな」と思ったんですね。それでテレビ局員になれないかなと思って、改めて大学を目指すために勉強した時期もあったんですけどそれも続かなくて。それで放送作家ならなれるのかなと思ってテレビ番組の一般投稿でネタを送ったりするようになったんですよ。『水曜日のダウンタウン』の説とか。それでちょこちょこ採用されたっていうこともあって「芸人的な瞬発力はないかもしれないけど時間をもらってアイデアを考えるのならいけるのかも」と思って放送作家を目指そうと思うようになりました。それで19歳の時にワタナベエンターテインメントの養成所の作家コースに入ったんです。

深田  あ、ワタナベエンターテインメントの養成所出身なんですか?そこから初めての仕事は?

ダンプ 養成所でコンペがあってそこで選んでもらったことでやらせてもらったニコ動の仕事が初ですね。そこに当時の四千頭身のマネージャーさんがいて「四千頭身のYouTubeを始めるんだけど編集できない?」と誘っていただいてやらせていただくことになりました。その時は編集できなかったんで声をかけてもらってから一夜漬けで編集を覚えたんですけど。

深田  たぶんその時点では作家だけでは食えてないですよね?バイトしながら作家やってたんですか?

ダンプ いえ、養成所に入るまでの2年間でそこそこはお金貯められていたんですよ。自分で借りた部屋を民泊で外国人に貸すっていうのをやっていたんですけど、それでそれなりには稼げていたんで。

深田  18,19歳くらいでそんなことしてたんですか!?やっぱIQ高い人って感じしますね(笑)。

ダンプ 松屋とか雀荘でバイトをしたこともあったんですけど、体力的にきつかったんですよね。この太った体なんで長い時間立っているのがキツくて。バイトとかやってらんないよとか人間関係が苦手とかでは全然ないんですけど。民泊で貯めたお金があったので作家始めてからもバイトはせずに生活はできていた感じですね。

深田  作家として仕事が増えたきっかけは?

ダンプ いくつかあるんですけど、1つは若手作家の飲み会で知り合った人にリサーチの仕事を紹介してもらって、そこでリサーチを頑張ったのを認めてもらえて、その番組を作っていた制作会社から仕事をもらえるようになりました。あともう1つは放送作家のカツオさんや丸山さん、池谷さん、山形さんがやられていたトークイベントに毎月行っていたんですよ。そこで毎回企画書を持っていって見てもらっていたらカツオさん、丸山さんのお2人に企画会議に呼んでもらえるようになって、そこから特番に呼んでいただけるようになりました。あとは四千頭身のYouTubeが伸びて、その後にワタナベ所属の丸山礼さんのYouTubeチャンネルにも入らせてもらってそれも伸びて。そのタイミングでYouTube系の会社の方と知り合ったり、そっち界隈の人たちにDM送って知り合っていってYouTubeの仕事が増えていきました。

深田  学生時代の話を聞かせていただきたいんですけど、どういうタイプの人間だったんですか?

ダンプ イケてるイケてないでいうとイケてない学生ですね。そもそも学校自体がイケてない男ばっかりの男子校だったんで(笑)。偏差値の高い学校でもイケてる奴とイケてない奴の両方がいる学校もありますけど、うちは基本ガリ勉しかいないような学校だったんですよ(笑)。僕は寮に入っていたんですけど、その学校の中でも「寮生は変わってる」みたいな感じで見られてましたし、その寮生の中でも浮いてる存在だったと思います(笑)。遊んでばっかりいたので・・・

深田  テレビとかお笑いは好きだったんですか?

ダンプ 僕は幼少期から英才教育を受けさせてもらって育ったんで中学校の寮に入るまではテレビを見たことがほとんどなかったんですよ。で、その寮にもテレビがなかったんでYouTubeでテレビ番組を見るようになりました。だから黎明期のはじめしゃちょーと『リンカーン』をYouTubeで一緒くたに見ていた感じですね(笑)。僕の学生時代は違法アップロードが凄かった時代なんで面白いテレビ番組はほぼYouTubeで知りましたね(笑)。だから逆にというか、僕が子どもの頃って『ヘキサゴン』の全盛期なんですけど、ああいうクイズ番組はYouTubeにはアップロードされにくい番組なんであれだけ人気番組なのに僕は見たことないんですよ(笑)。

岐部昌幸 独占インタビュー

名前岐部 昌幸
きべ まさゆき
出身地群馬県太田市
生年月日1977年10月9日
主な担当番組– ゲームセンターCX
– 勇者ああああ
–  シューイチ
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

・(動機)フォークダンスDE成子坂さん
単独ライブ「自縛」(VHS)を見て衝撃を受けて、
どういうカタチでもいいので、お笑いの世界に携わりたいと思いました。

・(きっかけ)ワタナベエンターテインメント オーディション
放送作家のなり方がわからず、芸人オーディションを受けました。それが縁で事務所ライブをお手伝いするように。

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?

クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!


深田 岐部さんがお笑い好きというイメージはなかったので「お笑いの世界に携わりたい」というのが少し意外でした。

岐部 子どもの頃からドリフが好きで特に『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が大好きでした。そして、大学生のときにボキャブラブームになり、いろんな若手芸人さんを知ったわけですが、群馬在住だったので気軽に劇場に通えませんでした。そんななか、TSUTAYAでボキャブラに出演していたフォークダンスDE成子坂さんの単独ライブのVHSを見つけたんです。当時は芸人さんのネタのビデオはほとんどなかったので、珍しいなと思いつつ借りて。もともと「GAHAHAキング」で成子坂さんのネタは見たことあったのですが、その単独ライブの内容に度肝を抜かれました。生意気な言い方になりますが、見たことのないお笑いのパターンがたくさん詰まっていて、とにかく斬新だったんです。

深田 僕はボキャブラは見てなかったんですけどフォークダンスDE成子坂は伝説のお笑いコンビですよね。

岐部 あえて「医者」みたいなベタな設定を選んで、これまでの医者コントにない笑いを展開したり。「全米が泣いた」的な映画予告の笑いもこの中でやっていました。この単独以外でも、あるお笑いトーナメントの2回戦で1回戦のネタを倍速でやったり、よくわからない対決が急に始まって「うわ~!俺の負けや」とよくわからないうちに決着がつくネタ(有名な「芋泥棒」)のはしりだったり。桶田さんの何をしでかすかわからない雰囲気、村田さんの切れ味抜群のツッコミ、でもどこかチャーミング。そんなおふたりが存在するお笑いの世界に触れてみたい、それがこの世界を目指した動機だったと思います。

深田 ワタナベエンターテインメントのオーディションを受けたのはいつですか?

岐部 僕は群馬県前橋市にある群馬大学に通っていたんですけど、就職活動をしないまま卒業して、卒業後に半年間バイトしてお金を貯めてから上京しました。それから紆余曲折あって、オーディションを受けたのは上京してから、さらに半年後ですね。

深田 話が逸れますけど国立大学に行ってるってことは勉強できたんですね?

岐部 勉強できたというより、行かざるを得ない事情がありまして……。実家がそこそこ貧しかったんです。団地住まいだったんですが、大人になって母から聞いたら家賃が1万2千円だったそうで。しかも我が家が住んでいた1階が一番安かったみたいです(笑)。余談ですが、ウチの2階にはブラジル人の家族が住んでいて、サッカーのワールドカップの時期になるとお祭り騒ぎで騒音が凄かったのを覚えてます(笑)。日本人がワールドカップで熱狂する前から2階のドタバタ音で「あ、いまワールドカップやってるんだな~」って大会の存在を認識してました。
……話を戻して、そんな家庭環境だったので、いざ大学受験のときに「国立で実家から通える大学なら行かせてあげてもいい」と親に言われて、それってもう選択肢が群馬大学しかないんです。受かってよかったです(笑)。地方の国立大ってやはりマジメな人が多く、県内唯一の国立大なので地元企業であればそれなりに就職できる環境のなか、就職活動すらしないというのは大学内でもかなり変人に見られましたね。あと、卒業後にバイトの面接受けるときも「え? 群馬大学出てなんでウチのバイトに?」と、ヤバいやつに思われて、なかなか受からなかったですね。あくまでも20年以上前の話ですけど。

深田 上京してから紆余曲折あったというのは?

岐部 ちょっとした行き違いから、上京してすぐにバイト先の社員さんにグーで殴られて心がボッキリと折れ、「上京して一人暮らしなのに引きこもり」というなんとも燃費の悪い生活を送っていたんです。そのあたりは拙著「ゲームセンターCX 作家岐部の挑戦」に書いていますので、気になる人は立ち読みしてみてください(笑)。
3か月くらい引きこもってましたが、さすがにお金がヤバくなり、ルノアールでバイトを始めつつ、そろそろ動かなきゃなと思ってナベプロのオーディションを受けました。

深田 そのオーディションをきっかけに劇場ライブの手伝いをするようになったんですよね?

岐部 そうです。劇場で1年くらいお手伝いをしていたら、そのうちナベプロ内に番組制作部を作るという話があがりまして。所属タレントを使った番組企画を制作まで含めて自社でやる、というプロジェクトの会議に、企画書作成担当の末端作家として僕も呼んでもらえたんです。その場に放送作家の安達元一さんがいらっしゃって、安達さんのもとで日々、企画書を作るようになりました。のちに飯島愛さんMCの番組が通って、その深夜番組でテレビの放送作家としてデビューさせてもらいました。

深田 岐部さんも企画書を書きまくっていた時代があったんですね。

岐部 当時はパソコンを使いこなせる放送作家がそれほど多くなく、僕は大学でパソコンを習っていたので当時としてはかなりワードを使いこなせる方でした。今の優秀な若手作家さんの企画書とは比べ物にならないですけど、図形やワードアートを使った企画書は当時としては見栄えが良く、ウソみたいな話なんですけど、自分の作った企画書のフォーマットが出回っていた時期もありました。

深田 へぇ~、そうなんですね。そこから放送作家として食えるようになるのはどれくらいですか?

岐部 劇場を手伝ってから2年ちょっとくらいですかね。『ゲームセンターCX』が始まったぐらいからギリギリ生活できるようになったと記憶しています。

深田 岐部さんといえばゲームというイメージですけど、その話は次の項目で聞かせてもらいますね。

岐部 わかりました。

今井太郎 独占インタビュー

名前今井 太郎
いまい たろう
出身地兵庫県
生年月日1983年
主な担当番組– あらびき団
– バナナサンド
–  チャンスの時間
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

東京NSC12期の作家コースです。 
芸人で言うと渡辺直美、ジャングルポケット、ジェラードン。作家だと谷口マサヒト。

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?

関西ローカルの「すんげー!Best10」
あと「笑ってコラえて」の前身番組「笑ってヨロシク」のスペシャル回がめちゃくちゃ好きでした。

 

Q:ディレクターやプロデューサーにアピールしたいことは

実は演者打ち合わせの経験値が高いと思います。


深田 僕、1983年生まれで今井さんとは同い年なんですけど、若手時代に1回特番で一緒になっただけでそれ以外は全く接点なかったですよね?

今井 そうですね。フジテレビの玉野さんの「こくなんぱ」ですよね。

深田 調べたらその特番が2012年なので9年前ですね。その後に同世代の放送作家の飲み会で1度お会いしたくらいで、その時も違う席だったからちゃんと話すのは今日が初めてなんですよね。放送作家になったきっかけから聞いていいですか?

今井 僕は出身が兵庫県なんですけど関西ってお昼にお笑い番組ばっかりやってるんですよ。それで元々お笑い好きだったんですけど、中学生の時に好きだった女の子が深夜番組の話をしてきて。それがアンケートにも書いている「すんげー!Best10」っていう千原兄弟さんが司会の番組で。お笑いも好きで興味があるのもあり、その子と話を合わせたくて見るようになったらジャリズムさんとか若手のお笑いが大好きになったんですよ。

深田 青春のいい話ですね(笑)。

今井 それでいつしか高校卒業したら芸人になりたいなって思うようになってたんですけど親に「大学は出ておきなさい」って言われて。行かせてもらえるのもありがたいので近畿大学に進学したんですね。で、大学時代に「自分は人間としておもしろくないので芸人にはなれないだろうな」って思って。それで構成作家を目指したいと思うようになって、卒業と同時に上京してNSCの作家コースに入りました。

深田 NSC卒業してからからどうやって仕事につながったんですか?

今井 卒業してから1年はルミネで見習いとかNSCのアシスタントをやっていたんですけど、そこから世界のナベアツさん、千原兄弟さんをお手伝いさせていただくようになって、作家の遠藤さんに声をかけてもらって「あらびき団」に入れてもらったのがテレビの仕事のきっかけですね。その後は「あらびき団」を作っていた制作会社に色々な仕事に呼んでもらえるようになりました。「イチハチ」とか「FUJIWARAのありがたいと思えっ!」とか。

深田 なるほど。ちなみにNSCの芸人の同期が渡辺直美さん、ジャングルポケット、ジェラードンって書いてますけど当時から仲良かったんですか?

今井 直美は当時から仲良かったですね。

深田 NSC時代から知ってる人が世界的な有名人になるってすごい体験ですよね。その頃から渡辺直美さんは面白かったですか?

今井 そうですね、面白かったです。直美とかジャンポケ斉藤くんのパフォーマンス見て「芸人にならなくてよかった〜」と思ってました。

深田 今井さんが若い頃から一緒にやっている人で売れてる芸人は他にどんな方がいるんですか?

今井 お手伝いさせてもらっていたメンバーだと…渡辺直美、シソンヌ、ニューヨーク、相席スタート、今はやってないですけどチョコレートプラネットとかですね。

深田 そういう人たちって出会った時から「この人たちは売れるな」って思うんですか?

今井 いや、僕そういうの分からないんですよね。もちろん、面白いとは思いましたけどその芸人が売れるかどうかって全然分からないんですよ。損得じゃなく興味だったり「この人たちのネタは僕の感性で無理せずネタのこと話せるな」ということを重点に置いてます。

深田 今井さんが面白いと思っていて、まだ世間的に売れていない人っています?

今井 もちろんいます。お手伝いさせてもらってる人たちなんで手前みそにはなりますけど、囲碁将棋とTEAM BANANAっていうコンビは面白いと思ってます。

深田 あとは学生時代の話ですけど、今井さんってどんなキャラだったんですか?

今井 まじでイケてるグループとイケてないグループの中間って感じですかね。どっちのグループとも話す感じでした。

深田 中学の頃からお笑い好きだったってことですけど、自ら笑いを獲りにいくようなタイプだったんですか?

今井 いや、自分では前に出ないんですけど生徒会長のスピーチを考えるとかはやってましたね。

深田 当時から作家っぽいことをやってたんですね(笑)。僕も学生時代はそんな感じだったんですけど。ちなみに僕と同い年ですけどダウンタウンは好きじゃなかったんですか?

今井 めちゃくちゃ好きでしたよ。僕らが好きになった頃はダウンタウンさんは漫才はやってなかったじゃないですか?当時、過去にダウンタウンさんがやっていた漫才を見たいと思ったんですけど、お笑いが何もわかってない状態では見たくないと思って18歳まで我慢して、ダウンタウンさんの漫才のビデオを見ました(笑)。

深田 子どもながらにすごいリスペクトがあったんですね(笑)。ちなみに関西でお笑い番組をたくさん見てたってことは、今は売れっ子の芸人の売れる前を見てるわけですよね?誰が好きだったんですか?

今井 「すんげー!」に出てた人たちは見てましたし、ケンコバさんや千鳥さんが好きでした。あとこれは先見の明があるっていうわけじゃないんですけど、麒麟さんがM-1に出て注目される前の全くの無名時代に深夜番組で見て、面白いと思って好きだったんですよ。

深田 その頃って関西でも全くの無名だったんですよね?

今井 そうです、ほとんど誰も知らなかったと思います。賞レースの予選だったんですけどあっさり落選して「え?」と思ってて。だけど、僕はめちゃくちゃ面白いと思ってたから、その時にM-1が始まって…偉そうですけど「ちゃんと審査されて決勝に出てこないかな~」と思ってたら、出てきたっていう感じでした。

深田 それすごいですね。

安田聡太 独占インタビュー

名前安田 聡太
やすだ そうた
出身地大阪府堺市
生年月日1982年7月13日
主な担当番組– ザ!世界仰天ニュース
– 林修の今でしょ!講座
–  ビートたけしのTVタックル
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

・馬主になれる職業だと知って。
・古舘プロジェクトの「月刊放送作家の会」というセミナーを経て
制作会社の作家・リサーチ部門に入りました

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は

・とんねるずのスポーツ王は俺だ


深田 安田さんが競馬好きというのは知っていたんですけど、放送作家になったきっかけも馬なんですね?

安田 そうなんです。大学生の時に馬主について色々調べていたら、馬主になっているのは圧倒的に経営者が多い中、放送作家の人がいるのを知って。村上卓史さんのことなんですけど。

深田 読んでいただいている皆さん、村上さんというのはこの放送作家名鑑でも取材を受けてもらった大御所作家の方です。

安田 馬主になる条件は当時から少し変わっているんですけど「所得がいくら以上を何年続けていて資産がいくら以上」みたいなのがあるんですよ。サラリーマンだとその条件を満たすのはなかなか難しい数字で、起業して社長になるのが一番の近道なんですけど、そんなタイプの人間でもなく…で、放送作家の人が馬主になっているっていうのを知って興味を持ちまして。まあ、業界に入って15年、全然条件満たせてないんですけど(笑)

深田 安田さんでもまだ無理なんですか!?相当ハードル高いですね~。っていうかやっぱり村上さんって凄いんですね。

安田 相当凄いですよ。

深田 ちなみに安田さんって大学どこ行かれてたんですか?

安田 一橋です。

深田 安田さん、一橋なんですか!?めちゃくちゃ頭いいじゃないですか!

安田 大阪出身なんですけど、一橋大学を選んだのもキャンパスが府中競馬場の近くにあったからですからね(笑)

深田 高校時代から競馬ガチ勢だったんですね。競馬については詳しくはのちほどお聞きしますが、放送作家になった流れはどんな感じですか?

安田 アンケートにも書かせてもらいましたけど、大学4年の時、古舘プロジェクトっていう古舘伊知郎さんの事務所が主催している無料のセミナーに通ったんですよ。

深田 古舘プロジェクトは古舘さんをはじめとしてタレントさんもいらっしゃいますけど、放送作家事務所でもあるんですよね。樋口卓司さんとか鮫肌文殊さんとか山名宏和さんといった大御所放送作家が所属してらっしゃいます。僕もそのセミナー行ったことありますから。タイミング的には安田さんより何年か後ですけど。

安田 そのセミナーで樋口卓治さんに「放送作家って仕事が無くても名乗った時点で放送作家だから」「放送作家やりたければ、どこでもいいからまず事務所に入ってみたら?」と言われまして。内心、古舘プロジェクトに入れればとうっすら思ってたんですが、入れてくれる感じはみじんもなく…放送作家事務所を調べてみたんです。そうしたらある制作会社が作家・リサーチ部門の募集をしていたので、応募して社員として採用してもらいました。

深田 社員でやってたんですか!?

安田 そうです。給料制でやってました。「世界仰天ニュース」をやっている会社だったんですけど。仰天ニュースのネタだしなどを担当していました。

深田 構成の仕事をやれるようになったのはどれくらいからですか?

安田 2年くらい経ってからですかね。BS-TBSでやっていたソムリエの田崎真也さんの番組が初めての構成作家としての仕事だったと思います。

深田 安田さん、今はフリーでやられてますよね?

安田 その会社は僕が抜けたいと言って抜けたわけじゃなく、その部署自体が解散になったんですよ。確か入社から4年半くらい経った頃で僕は26歳だったと思います。そこに所属していた作家はみんなフリーになって、僕もそれまでに出来ていたコネで仕事を続けさせてもらった感じです。

深田 色々な番組に呼んでもらえるようになったきっかけとかあります?

安田 僕は「ほこ×たて」が大きかったですね。あの番組をきっかけに色々な方にお仕事に呼んでもらえるようになったんで。

深田 残念な形で終わりましたけど、めちゃくちゃいい番組でしたよね。僕は1回目の特番から「めちゃくちゃ面白い番組だな!」って思ってましたからね。「シルシルミシル」を日曜19時にやってて「ほこ×たて」が裏番組に来るって聞いた時に震えましたからね。それにそのゴールデン1発目のスペシャルがまためちゃくちゃ面白くて。未だにブルーレイに焼いて永久保存版で持ってますからね。金属とドリルの対決、凄かったですよね。

安田 そう言っていただけると嬉しいです。あの番組がきっかけで「世界仰天ニュース」でも元々リサーチだったのが、構成作家としてやらせてもらえるようになったので、自分的には転機になった番組ですね。

深田 学生時代はどんな感じでした?

安田 イケてるグループ、イケてないグループでいうと、思いっきりイケてないグループの人間ですよね(笑)

深田 一橋行ってるくらいだから勉強は出来たんですよね?

安田 勉強自体は嫌いじゃなかったです。小5の時に塾に行き始めて、勉強が楽しくなったんですよ。競争が楽しくなったというか。頑張って勉強して成績上位になったら少し離れたレベルの高い塾に移ったんですけど、そういう感じも気持ちよかったというか。

深田 勉強出来る人って頑張った分だけ結果が出る感じが楽しいんでしょうね。ほとんどの人はなかなかそんな風に思えないですけど。

安田 それで中高は大阪星光学院っていう学校に通ってました。

深田 偏差値は高い学校なんですよね?

安田 大阪では一番でした(笑)今はどうか知らないですけど。中学の時から大学受験に向けた勉強をするような。みんなが東大・京大を目指してる感じの学校でした。

深田 やっぱ凄いな~。そんな育ちならそりゃあ仕事も頑張れますよね。青春をこれに捧げたみたいなものはあるんですか?部活とか。

安田 中2まではテニス部だったんですけど腰が痛くて、あっさり辞めちゃいました。これといって青春を捧げたものってないんですよね。

深田 お笑いは好きだったんですか?

安田 当時流行っていた「吉本超合金」とかは見てましたし、人並みにはお笑いも好きでしたけど、特別好きっていう感じはなかったですね。

深田 大学時代の青春は競馬ですよね?

安田 そうですね。サッカーサークルに入ってたんですけど、競馬があるからって試合を休んでましたからね(笑)

深田 そのために一橋行ったようなもんですもんね(笑)

堤映月 独占インタビュー

名前堤 映月
つつみ はづき
出身地東京都
生年月日1997年9月10日
主な担当番組– あざとくて何が悪いの?
– 夜な夜なラブ子さん
–  ヒルナンデス!
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

ガン!ドン!ズドン!と進む、日テレ系ドラマ「ドン★キホーテ」の正義のヒーローに元気をもらったのがきっかけです。私も作品を通して、前向きな気持ちになるきっかけを作りたいと思いました。

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?

・フジテレビ 人志松本のすべらない話(小籔千豊さんの「略礼服」)
・日テレ系ドラマ「校閲ガール」

Q:ディレクターやプロデューサーにアピールしたいことは?

ダンスで世界大会6位をとったことがあります。極める力と根性には自信あります!

Q:テレビ史上、最高の企画だと思うのは?

イッテQの「マグネットおじさん」
が、バラエティ番組では1番笑いました。


深田 色々お話を聞かせていただく前に、堤さんは今23歳なんですよね?キャリアでいうと何年目ですか?

  1年目です。

深田 1年目!?すみません、23歳というのは存じ上げてましたけど、色々な番組やられてるんで20歳くらいから大学行きながら放送作家やってたパターンかと勝手に思ってました。

  放送作家を始めたのは大学卒業してからなので。ですので私の話、他の放送作家のみなさんと比べて薄くなっちゃいそうで申し訳ないですけど(笑)。お話できることも少ないので。

深田 いや、23歳の女性放送作家の方の話は貴重だと思っていたんですけど、より貴重な記事になるのでありがたいです(笑)。では取材に移らせていただきますね。アンケートに書いているドラマの「ドン★キホーテ」を見たのが放送作家を目指したきっかけとのことですが、これはいつ頃の話ですか?

  中学1年生の時ですね。松田翔太さんが主演で社会問題を扱いながら笑いも織り交ぜたドラマだったんですけど、それを見て将来はテレビを作るお仕事がしたいなと思いました。

深田 中1の時にこの世界を目指し始めてるんですね。元々はドラマ志望ってことですか?

堤  そうです、元々はドラマの脚本もやりたくてテレビの世界を目指しました。今でも将来の目標です。バラエティでも成し遂げたい目標があるので、どちらも頑張っていけたらなと思います。

深田 大学卒業してから放送作家を始められたとのことですが、大学はどちらに行かれてたんですか?

堤  法政大学です。

深田 法政ということはお勉強も出来たんですね。在学中から放送作家になろうと思っていたんですか?

  そうですね、何年後かに作家になろうと思って就活でテレビ局をいくつか受けたんですけど受からなくて。でもやっぱりこの世界で仕事をしたいと思ったので思い切って放送作家を名乗りました。そこで、大学を卒業して何も仕事がないのは嫌だったので大学4年の冬に現役の放送作家の方と知り合っておこうと思いまして。私が映像制作のゼミに所属していたので先輩にテレビ関係の方も多く、そこで放送作家を紹介してもらって企画書などを書かせていただくようになりました。

深田 なるほど。ちなみに映像制作ゼミって自分で動画を撮って編集してたんですか?

  そうですね。イッテQがみんな大好きでよく見ていたのでゼミの友達と海外に行ってロケをして、イッテQのパッケージで「『ラ・ラ・ランド』のダンスシーンの再現に挑戦!」という企画で映像を撮ったりしてました。

深田 すごいですね。ちなみにダンスで世界6位を獲ったことがあるって書いていますけど、これはいつのことですか?

  中学1年生の時です。ヒップホップで世界大会6位を取りまして、高2の時に部活でジャズダンス全国大会1位を取りました。

深田 世界6位ってめちゃくちゃスゴイですよね。小さい頃からダンスやってたんですか?

堤  5歳の頃からヒップホップダンスを習ってました。

深田 まさかそんな体育会系とは。世界6位になるってけっこう厳しかったでしょ?

  そうですね、厳しいレッスンの日々でしたが良い思い出です。

深田 ダンスで世界6位になったことあるって、周りに言ってます?

堤  いえ、そんなには言ってないですね。言った方がいいですかね(笑)。

深田 絶対言った方がいいでしょ(笑)。インスタとかで踊ってる動画あげればいいのに(笑)。絶対ダンスの番組の仕事来ると思いますけどね。今後、ダンスの番組、地上波でもありそうだし。AbemaTVとかでもやりそうじゃないですか。実際、こないだテレ朝で放送された中居正広さんのダンスの特番(「中居正広のダンスな会」)に僕関わらせてもらいましたし。

  では今後は言うようにします(笑)。

深田 話を戻して…現役の放送作家と知り合って、どうやって仕事に繋がっていったんですか?

  ある時、作家の澤井直人さんを通じて大平尚志さんがTBSの特番で呼んでくださったのが初めての仕事です。

深田 初レギュラーの仕事は?

  テレ東の「どうぶつピース!!」が初めてのレギュラーです。そこから「あざとくて何が悪いの?」「中居大輔と本田翼と夜な夜なラブ子さん」「ヒルナンデス!」の順で決まっていきました。

深田 これまた凄い番組ですね。ちなみに「あざとくて」にはどのように入ったのですか?

  「あざとくて」がレギュラーになるという時に、演出の芦田さんが女性の作家を探しているということで、知り合いに紹介していただきました。大好きな番組だったので「入りたいです!」と前のめりになって連絡しました。

深田 そこからこれだけレギュラー番組が増えてるってスピード感やばいですね。

  本当にありがたいです。まだまだ私が得体の知れない作家だと思うので、面接をしたり、企画を一回出してみるという段階を踏んでから入れて頂いたりしました。

細川拓朗 独占インタビュー

名前細川 拓朗
ほそかわ たくろう
出身地山形県酒田市
生年月日1993年7月7日
主な担当番組– 動物ピース!!
– ザ・ベストワン
–  お笑いの日
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

大学時代、お笑いサークルに所属し、トリオで活動していました。
ある学生向けの大会に出場した際、審査員だった浅井企画さんにトリオでお声掛け頂きました。
僕はお笑いへ進む気持ちが強かったですが、相方は就職。
そこで、浅井企画さんに「作家としてお手伝いさせてくれませんか?」と
お願いしたことが放送作家になったきっかけです!

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?

■爆笑オンエアバトル
■あらびき団
■ゴッドタン
■ウレロシリーズ
■となりのシムラなど…
ただただ笑える番組ばかり好んで見ていました!


深田 大学時代にお笑いサークルに入っていたとのことですけど、元々お笑いをやるために上京してきたんですか?

細川 僕は出身が山形なんですけど、地元では結構なお笑い好きだったんです。大学の進学先を決める時、教員になれる学校を志望していましたが、お笑い活動をしたい気持ちもあって。当時、東京で開催されていた「D-1グランプリ」という大学お笑いの大会を見つけ、お笑い活動と教員になれる両方が叶えられそうな東京学芸大学を受験して上京してきました。芸人さんがわんさかいる東京への憧れも強かったですね(笑)

深田 トリオで学生芸人をやっていて、相方が就職を選んだために放送作家を目指したとのことですが、他の人と組んだり、ピンで芸人をやろうとは思わなかったんですか?

細川 今思えばピン芸人という選択肢もあったなとは思うんですけど、「このトリオじゃないとプロになりたくないな」と青春に酔っていたのもあり、全くそういう発想がなかったですね(笑)ですが、お笑いに関わりたい気持ちは強かったので、「放送作家として勉強させてください」と浅井企画の方に相談させてもらい、ライブなどのお手伝いをさせてもらうようになりました。

深田 テレビの仕事をするようになったきっかけは?

細川 大学時代にテレビ朝日で放送していた「学生HEROES!」という番組に学生芸人として出演させて頂いてました。そこには、今フワちゃんTVで活躍されてる長崎周成さんもいたんですよ。作家2年目の時、長崎さんに「まだまだ放送作家だけで食えてないんですよ」と相談したことがあって。そうしたら特番にリサーチで呼んでくださって、テレビのお仕事をさせてもらうようになりました。「文無しアカデミー」っていう特番だったんですけど、演出の方のご好意で構成作家としてエンドロールに名前を出していただけて凄く嬉しかった記憶があります。その特番に作家の澤井さんもいて、また別のお仕事に呼んでもらったり、他の作家さんにも出会うようになって、色々と声をかけてもらえるようになりました。拾ってくれた人のおかげで今があります(笑)

深田 細川さんも「学生HEROES!」出てたんですね!?けっこうみんなあの番組出てますね。

細川 そうですね(笑)意外と「学生HEROES!」出身で活躍されている方が多いと思います。放送作家の白武ときおさんや鈴木遼さんも番組の学生作家として入ってましたし。今芸人活動をしているサツマカワRPGさん、真空ジェシカさん、YouTuberのおるたなChannelないとーさんも出演していました。他にもここ書ききれないぐらい「学生HEROES!」出身の方がいますよ。

深田 YouTubeやTikTokで自分でネタを演じている細川さんのお笑いのルーツについて聞きたいんですけど、お笑いが好きになったタイミングは?

細川 小学生の頃に見ていた「爆笑オンエアバトル」でお笑いの沼にハマりました。当時、周りは「エンタの神様」や「笑いの金メダル」を見ていましたが、僕は深夜のお笑い番組を見漁って、“俺はコアなお笑いを知ってるぜ”と優越感に浸ってました(笑)

深田 お笑いの仕事がしたいっていうのはいつ頃から思い始めたんですか?

細川 いつ頃からですかね…。でも小学校の卒業文集にはプロ野球選手か芸人と書いていた気がします(笑)中学生ぐらいからプロ野球は難しそうだぞと思ってましたが、お笑いの世界にはずっと行きたいと思ってましたね。

深田 学生時代はどんなキャラクターだったんですか?

細川 僕は一応小中高と野球部で、キャプテンとかもしていたので、比較的ネアカに育ったと思ってます。ただ高校野球は「チームに迷惑を掛けたくない」という緊張からイップスになって、ありえないエラーをして迷惑かけてましたけど(笑)

深田 マジですか!?僕も小中高と野球部で高校の時にイップスになりましたよ(笑)なんかイップス経験者の人としゃべるの楽しいんですよね。通じ合うというか(笑)細川さんのイップスはどんな感じでした?僕はファーストでバント処理の時に近い距離を投げるのが出来なくて、1回ライトに投げてしまったことあるんですけど。

細川 僕はセカンドかサードを守ることが多かったんですけど、深田さんと同じで近い距離の送球が厳しかったんですよ。練習ではそこそこ上手くやるんですけど、試合になったら全然できないっていう(笑)あの気まずい瞬間だけには戻りたくないです(笑)

深田 セカンドかサードでイップスだったら大変ですね…。まあともかく、学生時代も楽しんでる感じですよね?クラスの隅にいたっていうよりは。

細川 そうですね。文化祭でコントをやったりもしてましたし。真面目に勉強する生徒が多かったので平和に暮らせたのかも知れません(笑)

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