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小林 仁 独占インタビュー

名前小林 仁
こばやし ひとし
出身地京都市
生年月日1971年2月28日
主な担当番組– 明石家電視台
– ごぶごぶ
– あさパラ!
– 真夜中市場
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

▼小学校5年で深夜ラジオを知る「MBSヤングタウン」
▼その頃、漫才ブームが起こる
▼面白いことはしたいけど恥ずかしがり屋だったのでコンビは組まず
    練習に付き合って意見してた(結果、手見せ)
▼ラジオにハマり、ハガキを送りたくなって
 送ったら読まれて幸せな気分を味わう
▼ラジオパーソナリティーに憧れるも、勇気出ず
▼ラジオを聞いている内に「放送作家」の存在を知る
▼中学の時点で「放送作家」になりたくてハガキ職人に

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?

▼オレたちひょうきん族
▼めちゃめちゃイケてるッ
▼鶴瓶・上岡パペポTV


 小学生の頃の漫才ブームっていうのは、やすきよとかツービートが活躍した漫才ブームですよね?

 そうですね。フジテレビで「THE MANZAI」という番組が始まって、全国的に大ブームでしたから、当時、京都で小学生だった私も衝撃を受けましたね。今じゃ伝わらないと思いますが、当時、関西の小学校では友達同士でコンビを組んで、みんなの前で漫才を披露するっていうムーブメントがあったんです。

 それ聞いたことあります。ダウンタウンさんも小学生の頃、それぞれ違う友達とコンビを組んで漫才をやられていたって言いますもんね。

 そうです。僕の通っていた小学校では、土曜のホームルームに漫才を披露する時間があって、そこに向けて1週間かけて放課後に各コンビが漫才を仕上げていってましたね。

 すごい文化ですね(笑)

 アンケートにも書きましたが、当時の僕は恥ずかしがり屋だったので漫才コンビを組めず、でも、面白いことはしたかったので、友達のコンビの漫才を見て「そこはこうした方がいいんちゃう?」とか意見を言ったりしていました。今思えば既に放送作家的なことをやっていました。

 あ~、当時からそういう立ち位置だったんですね。僕も小学生の頃は、行事の出し物で劇とかやる時は、出演はせずに脚本を書いてましたけど、子供の頃からそういう裏方気質みたいなのってありますよね(笑)

 その頃は「放送作家」なんて仕事があることも分かってなかったですけど、ラジオにハマったことをきっかけに“放送作家”という存在を知るんです。「たけしさんの横で笑ってる人がいる。誰やろ?」「嘉門達夫さんの横でツッコんでる人がいる。誰や?」と。当時、中学生でしたが「なりたい職業が見つかった!!!」と興奮しました。

 あ~、僕は世代が違いますけど、高田文夫さんをきっかけに放送作家に憧れた人は多いって聞きますね。

 ラジオをきっかけに知った放送作家に「どうやったらなれるのか?」を日々考え、調べるようになったんですね。その結果、聞いていた「ヤングタウン」というラジオのバイトから、放送作家になっている人が何人かいる!というのを知って「大学生になってヤンタンのバイトをやる!」というのを人生の目標に掲げたんです。

 へぇ~。学生時代から計画的に放送作家を目指した人って珍しい気がしますね。

 それと同時に、ラジオも聴くだけじゃなくて、ハガキを送ってみようと思って、嘉門達夫さんのラジオにネタを書いて送ったんです。そしたら一発目に送ったのがたまたま採用されて。

 お~、すごいですね。

 自分が書いたことが読み上げられてウケた!毎週聞いてた嘉門さんが褒めてくれている!!コレが電波に乗って流れている!!!その全てが嬉しくて、そこから毎週ハガキを送るようになったんですけど、次の週からはなかなか採用されなかったんですね。でも、読まれた快感が凄すぎて諦めきれず、チャレンジしてる内に送るハガキの枚数も最初は2~3枚だったのが20枚とかになって、どうやったら採用されるかとかも研究して、「傾向と対策」も考えるようになったんです。

 例えば、どんな対策をしていたんですか?

 「先週のオープニングトークで話していたこと」にちなんだネタを書くと採用されやすい、とか。他の人より目立つようにクレヨンで書くと採用されやすい、とか。出来るだけ読みやすい字で書く、とか。そんなのですけど。そういうことをやっているとどんどん採用率も上がっていったんです。それが中学・高校の頃ですね。

 中学生ですでにハガキ職人だったんですね(笑)

 そしたらある日、その番組の有名なハガキ職人の方から手紙が来たんです。「嘉門達夫さんがブレーンチームを作ろうとしてるんだけど興味ないですか?」と。その頃、嘉門さんはブレーンを作ろうとしていたらしくて、関西のハガキ職人に声をかけていたそうなんです。僕はその時、高校2年でした。

 それは嬉しいお誘いですよね。

 むちゃくちゃ嬉しかったです!!!「夢だった作家への道が勝手に近づいてきた!」と興奮しましたね。それで、高校も通いながらハガキ職人活動も続けながら、嘉門さんのブレーンチームの1人として嘉門さんから発注が来たら、その都度ネタを提出みたいなのをしていました。その後、1浪して大学に入って念願のヤンタンのバイトを始めるんです。

 計画通りですね。

 いわゆるラジオ番組ADのバイトでしたけど、ディレクターさん達は、僕が作家志望ということは知っていたので「クイズの問題考えて!」とか「新コーナー考えて!」とか、バイトの身でありながら、作家的な仕事も振っていただいたんです。で、もちろん、ずっと聞いてた嘉門さんの曜日にも配属されて、その曜日の作家の東野ひろあきさんにもやっと出会えました。ラジオを聞き始めた小学生の時に嘉門さんの横でツッコんでた「放送作家の存在を知ったきっかけの人」にやっと会えました。

 関西の有名な放送作家の方ですよね。

 そうですね。それでADのバイトを始めてから1年くらい経った時に、僕を含めて作家志望の若手3人で、東野さんの事務所の引っ越しのお手伝いに行ったら、作業が終わった後に東野さんが「みんなにプレゼントがあります」と。それで貰ったのが放送作家の名刺だったんです。要は、東野さんの放送作家事務所に入れていただける、ということだったんですよ。

 あ~、サプライズ的な感じで。

 そこから東野さんが担当する番組に若手として入れてもらえるようになった感じですね。東野さんは大阪ではかなり勢いがある状態でしたから、番組が立ち上がる時に東野さんに声がかかって、東野さんが「ウチの若手作家も何人か入れたいんですけど、どうですか?」という感じで入れていただけることが多かったです。

 それがいくつぐらいの時ですか?

 私が20歳、東野さんは32歳頃だったと思います。

 大学はどうしたんですか?

 大学はヤンタンのバイトやるために入ったようなものだったんで、バイト始めてすぐに、大学1年で辞めたんですよ。勝手に辞めたから親は怒ってましたね。

 本当に放送作家になるためだけに大学に入ったんですね(笑)放送作家デビューと認識されているのは何の番組ですか?

 関西では吉本が劇場を作ると、その劇場で収録する番組が作られるという流れがあったんです。「心斎橋筋2丁目劇場」が出来て「4時ですよ〜だ!」が生まれて成功したからなんですが。その頃は、「うめだ花月」という劇場が新しくなって復活したんです。そのきっかけで出来たのが「テレビのツボ」という深夜の生放送の帯番組なんですけど、超低予算だったので若手作家が集められまして、東野の推しで最若手作家として入れて頂きました。しかも、1曜日につき、作家は1人だったので、いきなり曜日メイン作家(笑)1人立ちの放送作家デビューという意味では「テレビのツボ」になりますね。

 タイミングが良かったんですね(笑)

 それしかないです!(笑)結果、「テレビのツボ」は当時、関西ではかなりのブームになった番組でしたから「深夜番組で面白いことをやったらブームになるんだ!」という体験を出来たのはとても貴重でしたし勉強になりましたね。