酒井 義文 独占インタビュー


名前 | 酒井 義文 さかい よしふみ |
出身地 | 岡山県岡山市 |
生年月日 | 1974年10月7日 |
主な担当番組 | – しくじり先生 – 東北魂TV – 有田Pおもてなす など |
アンケートへの回答をもとにインタビュー取材
Q:放送作家になったきっかけは?
・僕は元々大阪で芸人(NSC16期)をやってまして、芸人を辞めた頃に
憧れの先輩だった現ロッチのコカドさんが東京で芸人をやるというので
「じゃあ僕は作家やります」とほぼ一緒に上京しました。
Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?
・ダウンタウンのごっつええ感じ
深田 酒井さんがNSCに入学されたのはいつなんですか?
酒井 大学3年の時です。僕は岡山出身なんですけど、大阪経済大学に進学したんですね。それで大学3年の時に地元の2個下の後輩に誘われて入りました。ダウンタウンさんに憧れていたっていう、スーパーベタなやつです(笑)
深田 (笑)大阪NSCの16期って同期には誰がいたんですか?
酒井 現ロッチの中岡君がいました。当時は「3児」というトリオでやっていたんですけど、めちゃくちゃ面白かったんですよ。
深田 そのトリオは中岡さんがネタを考えていたんですか?
酒井 そうです。中岡君はネタを考える能力も凄かったんですよ。のちに1度芸人を辞めてサラリーマンになって、5年のブランクを経て、また芸人を始めるんですけど、その5年でネタが考えられなくなってしまったみたいですけど(笑)当時、僕の相方は3児のネタを見て「これは勝てない」って言って、芸人を辞めちゃいましたからね。
深田 へぇ~。相方と解散した後は、酒井さんはピンでやられたんですか?
酒井 いえ、地元の同級生を大阪に呼び寄せてコンビを組みました。
深田 当時、出られていた劇場は?
酒井 2丁目劇場ですね。
深田 あ~、あの有名な。
酒井 その頃に、今は放送作家をやられている、当時チャイルドマシーンさんとして活躍されてた樅野さんとも出会っているんですよ。当時遊んでもらったり、ネタのダメ出しをしていただいたんですけど、樅野さんは当時の僕を全く覚えていないんですけどね(笑)「お前、大阪時代に俺と遊んでたって、ウソついてるだろ?」って今でも言われますから(笑)後輩の数がめちゃくちゃ多いので仕方ないんですけど。
深田 樅野さんはどんな先輩でした?
酒井 それはもう憧れの先輩ですよね。僕も若かったんでそれなりには芸人として尖っていたんですけど、それを凌駕するくらいチャイルドマシーンさんは面白かったんで、本当に憧れの存在でしたよ。
深田 酒井さんが芸人を辞めるきっかけは何だったんですか?
酒井 ちょうどbaseヨシモトが出来たくらいの時期ですけど、NSC在学中のキングコングに劇場でボロ負けして、コンビ組み立ての頃のフットボールアワーさんにも圧倒的に負けて。その人たちを見ていたら「絶対に無理だな」と思ったんですよ。
深田 そこからどうやって放送作家に?
酒井 その頃、ロッチのコカドさんとよく遊ばせてもらっていて、「東京に行って芸人をしようと思う」という話をされた時に、「それなら僕、作家やりますよ」って言ったんです。元々、放送作家という選択肢も頭にはありましたし、コカドさんも憧れの先輩だったので、この人と一緒にいたいという思いもありましたから。
深田 それで上京して、すぐに放送作家にはなれたんですか?
酒井 いえ、作家になるために色々もがきましたね。この作家名鑑を読ませていただいていますけど、みなさんが作家になるためにやられたこと、僕は全部と言っていいくらいやってるなと思いましたから(笑)深田さんが行っていた日テレ学院という放送作家セミナーも行きましたし、制作会社に入ってリサーチをやっていた時期もありましたし、放送作家の安達元一さんがやられていた安達塾にも行きました。自分の作家人生を初めて振り返って気づいたんですけどめちゃくちゃもがいてますね!(笑)
深田 それは意外でした。すんなり作家になれたわけじゃなかったんですね。結果的にはどうやって作家になったんですか?
酒井 安達塾に行ってる頃に、僕の恩人の1人の井上淳矢ディレクターに「ミュージックステーション」のリサーチで入れてもらったんですよ。当時、音楽の雑学を紹介するコーナーをやっていたので。
深田 そこで「Mステ」を担当している樅野さんと久しぶりに再会したってことですよね?
酒井 はい。ただ、さっきも言ったように僕のこと「ごめん、ほんまに知らんわ…」って(笑)でもその直後から、めちゃくちゃ気にかけていただいて一番お世話になっている作家の先輩です。