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矢野了平 独占インタビュー

名前矢野了平
やの りょうへい
出身地埼玉県さいたま市(旧・大宮市)
生年月日 1977年6月19日
主な担当番組– ミラクル9
– 潜在能力テスト
– 今夜はナゾトレ
– 99人の壁
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

アルバイトでクイズ問題作成をしていた「高校生クイズ」のプロデューサーに「お前は作家になれ」と言われたのがきっかけ。


 アルバイトでクイズ問題を作っていたというのは大学でクイズ研究会とかに入ってたからそういうバイトの依頼があったってことですか?

 高校の頃にクイズ研究会を自分で作ってその頃から、いろんな大学のクイズ研究会にも顔を出していたんですよ。その時、大学生の人たちが「高校生クイズ」の問題を作るバイトをやっていたんですけど自分も大学生になってそのバイトを紹介してもらったんです。

 バイトで知り合った高校生クイズのプロデューサーに「作家になれ」と言われてすぐ放送作家に?

 自分ではその頃バイトをしていた居酒屋の正社員になるもんだと漠然と思っていたんですけど「作家になれ」と言われて「楽しそうだし、やってみてダメならいつでも戻れるかな」と思って大学を卒業してから今も所属しているカメヨという事務所に入らせてもらったんですよ。

 最初はどんな仕事をされてたんですか?

 最初は事務所の先輩作家のお手伝いでラジオでリサーチをしたり、雑用をやってましたね。その中には「高校生クイズ」の仕事もありましたし。

なかじまはじめ 独占インタビュー

名前なかじま はじめ
出身地東京都
生年月日1978年1月29日
主な担当番組– やべっちFC
– 陸海空こんなところでヤバイバル
– 帰れマンデー
– 世界!ニッポン行きたい人応援団
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

大学生の時、女友達の彼氏が放送作家でその子伝いに書き溜めていたコントを沢山持って行ったらその放送作家事務所に入れてくれた。


 女友達の彼氏の放送作家というのは何ていう方ですか?

かじま 浅野吉朗さんっていう人でハガキ職人からとんねるずさんのラジオで放送作家になった人ですね。一時期、野猿のメンバーだった人です。

 そうなんですか!?それきっかけで秋元康さんの事務所に入られたんですよね?

かじま そうです。吉野晃章さんと浅野さんに面接して頂いて面白がってくれました。

 なんでコントを書き留めてたんですか?

かじま 大学時代は小さな劇団に所属していて、コントを書いて自分でも演じたりしていたんですよ。そもそもは役者になりたかったんです。

 元々、芸能の仕事をやりたかったんですね。当時の秋元さんの印象とか覚えていることはありますか?

かじま やっぱりオーラがありましたし、怒られたことはなかったですけど、怖さは感じてましたね。「ヘンなこと言ったら冷たくされるんじゃないか?」って勝手に委縮しちゃってました。めちゃめちゃ優しくしてもらってたんですけど。

 秋元さんから教わったことで覚えていることは?

かじま 下っ端中の下っ端だったんでほとんどお話もしたことがないくらいなんですけど「映画を1日1本見ろ」っていうのは言われたことがあります。秋元さん自身が映画も舞台も本もとにかくエンタメ作品を見られている方なので。

 それ鈴木おさむさんも弟子に言ってたって聞いたことありますね。「1日1本映画見なさい」と。他に秋元さんで印象に残っていることは?

かじま とにかく後輩に食べさせてくれるんです。ぼくは先輩が「食べて」と言ったらお腹いっぱいでも残さないのが礼儀だと思っているので必死で食べてました。無理して食べすぎて1度、秋元さんとお別れした後に路上で気絶したことあります(笑)

 テレ東の佐久間さんが最近太ってきてるのって「青春高校3年C組」で秋元さんと食事行くことが増えたからですよね?(笑)

かじま たぶんそうだと思いますよ(笑)

 はじめさんは今でもたまに秋元さんとお会いするんですよね?

かじま そうですね、たまにですけど。もちろん、ずっと憧れの人です。本当に優しい人なんですよね。

第1話 担当番組の悪口

河井克夫

漫画家。
著書に「ニャ夢ウェイ」1〜4(松尾スズキと共著)
「日本の実話」「女神たちと」「久生十蘭漫画集」など多数。

映画(「ゾンビデオ」〈2011〉)の脚本や、ウェブアニメや舞台の演出など、さまざまなジャンルで活躍。さらには俳優としてもNHK「あまちゃん」「軍師官兵衛」「半分、青い」などのドラマやCMにも出演。

CX「滝沢カレン一座」において放送作家として遅いデビューを果たす。

樅野太紀 独占インタビュー

名前樅野 太紀
もみの たいき
出身地岡山県倉敷市
生年月日1974年10月13日
主な担当番組– しくじり先生
– NHK紅白歌合戦
– MUSIC STATION
– あいつ今何してる?
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

元々吉本でチャイルドマシーンというコンビで活動していたのですが30歳の時に解散が決まって「これからどうしようかな?」と思ってる時に芸人仲間の中で「樅野、作家になるらしいよ」という噂が流れているのを聞いて「挑戦してみよう」と思ったのがきかっけです。


 そもそも芸人を目指したきっかけからお聞きしていいですか?

 18歳で岡山の高校を卒業して大阪のとある大学に入ったのよ。

 あ、そうなんですね。高校卒業してすぐにNSCに入ったものだと勝手に思ってました。

 で、大学に通い始めた初日に「いい目をしてるね」っていう理由で空手部に監禁された(笑)そんなこともあって大学行くの嫌になっちゃって行かなくなったの。

 初日でえらい目に遭いましたね(笑)

 それで大学も行かずに何もしてなかった時にテレビで初めて大阪の劇場で活躍してる若手芸人を見たのよ。千原兄弟さんとかジャリズムさんとかメッセンジャーさんとか。

 そうそうたるメンバーが若手芸人の時代ですね。

 そう、おれ元々テレビもそんな見てなかったし、お笑いも詳しくなかったけど、それを見て「楽しそう。ここに入るにはどうすればいいんだろ?」って思ったの。

 そこで芸人になりたいって思ったってことですか?

 いや、実は最初は芸人になりたいとかもなくてただ、リハビリのつもりでNSCに入ったのよ。

 それでNSCに入って本格的に芸人になりたいと思ったタイミングは?

 これ自慢話になっちゃうんだけど(笑)おれNSC15期だったんだけど入学して2〜3か月くらいの時に半年先輩の14期と15期で合同イベントがあったの。そこでのちの相方と即席で組んだコンビでネタやったら15期の中ではトップの成績だったの。

 ほぉ。

 そこから周りの見る目が変わって15期の中ではエリートみたいな感じになって人生で初めてチヤホヤされたの。そこから芸人として本気でやってみようって思い始めたかな。

 芸人としての滑り出しはよかったんですね?

 NSC在学中からテレビとか出られたし、おれらの1年上(2期上)の先輩が次長課長・ブラマヨ・野性爆弾っていう黄金の13期なんだけど、確か13期の方々より早く2丁目劇場のレギュラーになったからね。芸人1年目の年末に「オールザッツ漫才」にも出たし。

 それは凄いですね!

 まあスーパーエリートだよね(笑)オリラジくらい出世早かった(笑)

 そこからずっと順風満帆ですか?

 その後、おれらは1年半で東京進出したの。当時は大阪で成功してから東京行くのが普通だったんだけど、おれらは生意気にも「どうせ、いつか行くんだから早い方がいい」って。それで東京に移籍して銀座七丁目劇場に出るようになったの。

 展開早いですね。

 でもその後は苦労したけどね。ちょっとして銀座の劇場も閉館して。その時、1回芸人辞めようって思ったから。そこから2年ぐらい仕事なくて。で、その頃に新宿にルミネが出来たのかな。

 ルミネが出来てから仕事増えたんですか?

 当時、オンバトを出ることを目標にしていたんだけど、ある時に欠員が出て初めてオンバトに出させてもらえたの。1回でも落ちたら2度と出させてもらえない崖っぷちの状況だったけど、オンエアしてもらって、その日から2年間で8連勝。

 8分の8オンエアですか?

 そう。2年連続決勝にも行かせてもらって。

 おぉ、すごい!

 で、1回目のオンバトの決勝の翌年の学園祭シーズンから芸人として食えるようになった。

 コンビ解散が決まって、「樅野が作家になるらしい」って噂を聞いてなろうと思ったってどういうことですか?

 おれらが解散するって決まったのが2004年の秋だったんだけど、12月にDVDの発売が決まったりしてて、色々な人に失礼になっちゃうからすぐには公表できなかったの。

 ほぉ。

 ただ、M-1にもエントリーしてないし、仕事のスケジュールも白紙になってたから芸人の間では「チャイルドマシーン解散するらしい」って噂が流れて色んな人から「樅野、作家になるんやろ?」って言われたの。元々は芸人辞めたら田舎帰ろうと思ってたんだけど、それ言われて「放送作家やってみるのもあるか」と思って2年だけやってみようと思ったの。その時、30歳だったんだけど30で田舎帰っても32で帰っても一緒だなと思って。

 へぇ~

 で、「虎の門」でお世話になってたテレ朝の藤井さんには報告しとかなきゃと思って電話したの。「芸人辞めて放送作家に挑戦してみようと思います」って。そしたら「そうなんだ。なんかあったら連絡するわ~」って言っていただいて。で、ちょっとしてから藤井さんから電話あって「ライバルの番組だけどやる?」って。

 何の番組ですか?

 「限界アンタッチャブル」っていう特番。そこにいたスタッフが作家は伊藤正宏さん、渡辺真也さん。ディレクターがテレ朝の小田さんっていうのちにお世話になる人ばっかだったんだけど。

 お~、作家デビューからそのメンバーとめぐり合ったんですね。でも、不思議なのはコンビ解散してなんで芸人辞めようって思ったんですか?ピンでやろうとか思わなかったんですか?

 チャイルドマシーン以上のコンビを作る自信はなかったし、ピンとしてもバカリズムさんみたいな圧倒的な発想もないし、くまだまさしみたいな圧倒的なキャラもないし、あべこうじ君みたいな圧倒的なしゃべりもないから。おれがピン芸人やるなんておこがましいって感じだったから。

 そうか~、やっぱり厳しい世界ですね。チャイルドマシーンはM-1優勝候補だったって聞いてましたけどね。

 いや、優勝候補ではないかな。決勝進出候補ではあったと思うけど。

 そこから藤井さんのもとで作家を始めて打ちのめされていく日々が始まるわけですよね(笑)

 そうそう(笑)

高橋邦彦 独占インタビュー

名前高橋邦彦
たかはし くにひこ
出身地神奈川県
生年月日1978年5月23日
主な担当番組– ダウンタウンのガキの使い!!笑ってはいけない
– 新しい波24
– AI-TV
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

売れない芸人を18年やってたんですが、家族を持つことになりまして…
家族を養うために稼がなければいけない。

でも、どうしてもこの世界の人たちが好きで好きで仕方ない。
そして悩んだ結果、一か八かで遅咲き放送作家デビューをさせて頂きました。


 そもそも芸人を目指したきっかけは何ですか?

 芸人時代の相方は元々高校の友達で同じ柔道部に入ってたんですよ。

 アホマイルドの相方さんは高校時代の友達なんですね?

 そうです。高校の時に柔道部の先輩から「なんかやれよ」って言われて、2人でネタみたいなことやったらウケて。勘違いしちゃって芸人目指した、みたいな感じですね。

 どんな芸人に憧れてたんですか?

 ダチョウ倶楽部さんとか、江頭さん、とか出川さんとか「お笑いウルトラクイズ」に出てた方々ですね。

 体張り系の人たちですね。ダウンタウンさんとかではなく?

 もちろん、ダウンタウンさん、とんねるずさん、ウッチャンナンチャンさんは好きでしたけど、自分たちが目指すべきはそういう人たちじゃないっていうのは自覚してましたから(笑)

 それで芸人を目指して吉本の養成所NSCに入ったわけですね?いわゆる「華の4期」ですよね?

 そうです。ロバート、森三中、インパルス、椿鬼奴とかが同期です。

 凄いメンバーの期に入りましたね。当時、周りを見渡してどうでした?

 みんな面白かったですけど、最初からロバートの秋山君は別格でしたね。とにかく面白かった。

 同期は何人くらいいたんですか?

 確か400人くらいですかね。

 400人!?のちに売れた人たちはやっぱり最初から光ってました?

 そうですね。けど、NSCの時に面白かった人が必ずしもみんなその後に売れたってわけでもないですけど。

 そんな同期たちとしのぎを削って18年芸人をやったっていうのは凄いことですよね。で、結婚を機に芸人を辞めたってことは芸人1本では食えてなかったってことですか?

 食えた時期もあったんですけど、結婚した時は食えてなかったです。だからもう辞めるしか無い。でもこの世界好きだし。って悩んで恐れ多いとは思いながらも放送作家になれないかなと。

デーブ八坂 独占インタビュー

名前
(本名)
八坂英敏
やさか ひでとし
出身地大分県
生年月日1983年8月6日
主な担当番組– 和風総本家
– お願いランキング
– 得する人損する人
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

・お笑い芸人になるために18歳で東京アナウンス学院に入るも三拍子さんの漫才を見て「これは無理だ」と判断。半年で学校を中退。

・その後、彼女の家に居候をしながらオールナイトニッポンや週刊SPA!のバカサイ、TBSジャンクなどのネタハガキを週に100枚送り、ハガキ職人として田村淳さんのオールナイトニッポンに呼ばれる。

・そこで淳さんに「放送作家目指してんの?だったら次は現場で会おうな」と言われたことに触発され、翌日、漫画喫茶で「放送作家 募集」と検索して出てきた現在の事務所「オフィス・トゥー・ワン」の門を叩く。

・その後、TBSの深夜特番「プライス4」のリサーチの仕事が決まり、業界に入ったのが放送作家になったきっかけです。


 そもそもお笑いを好きになったきっかけは何ですか?

 小学1年生の時にダチョウ倶楽部さんが流行ってたんですけど、クラスに「ダチョウ倶楽部ってつまんない!」っていう友達がいて。それに僕が、「いや、あの感じが面白いでしょ!」って言い返して取っ組み合いの喧嘩になっちゃったんです。で、相手の襟首を持ちながら「あれ?もしかして僕はお笑い好き?」って認識したのが一番古い記憶なのできっかけなのかなと。(笑)

 ダチョウさん的に嬉しいのか嬉しくないのか分かんないエピソードですね(笑)

 たしかに(笑)でも、そこから「バカ殿」を見始めて中学の時に「ボキャブラブーム」が来て、芸人さんのネタにも興味持ち出して、友達同士でコントグループを組んで文化祭や学校行事でコントを作って人前で出てやるような少年になっていきました。

 クラスでは人気者だったってことですか?

 人気者というかただの目立ちたがり屋です(笑)今考えると超痛いですけど高校の時も「全校生徒を笑わせよう」っていう目標を決めて、球技大会が1年から3年まで体育委員長が挨拶をするっていうのを知って体育委員長に立候補して、先生のモノマネやったり、「暑いですね~」とか言って急に倒れて運ばれるみたいなボケをやってました。
今、考えると超嫌いなタイプですよ。

 高校生くらいから芸人になりたいと思い始めた感じですか?

 そうですね。

 で、アナウンス学院を選んだ理由は?

 大分県の田舎だったので、親に「学校」って言った方が説得しやすかったからですね。

 相当な覚悟で上京したと思うんですけど、たった半年ですぐ芸人はあきらめたんですね?

 すぐに自分にセンスがないのを知ったんです。アナウンス学院のイベントで卒業生がネタをやるっていう時に2個上の先輩の三拍子さんがネタやったんですけどめっちゃ面白くて「あと2年でこの人たちぐらい面白くなるのは俺、無理だわ!センスないわ」って、すぐ辞めました(笑)

 「芸人は諦めて放送作家になろう」と思って辞めたんじゃなくて、次に何をするかは全く考えずに辞めたんですか?

 そうですね。

 その後、フリーターをしながらラジオのハガキ職人をやっていて、ロンブーの淳さんに会った時に放送作家になろうと思ったと?

 淳さんのオールナイトニッポンの最終回に呼ばれまして、打ち上げで淳さんから「君は放送作家になんの?」って言われて、そんなこと思ってなかったんですけど、ド緊張してたので勢いで「はい、なります!」って言っちゃったんです(笑)

 この仕事始めてから淳さんには会えたんですか?

 会えました!9年後の28歳の時ですね。「世界なんでも勢力図」っていう関テレの特番で。作家の大井洋一さんが考えた企画を僕が企画書にするってことで、大井さんが「好きな人MCで書いといていいよ」って言われたので淳さんって書いたら、そのまま通って。大感動ですよ。

 おぉ、すごい。

 その番組の会議で「ラジオで淳さんに言われて放送作家を目指した」って話をディレクターさんにしたら「おい、それは収録終わりに紹介してあげるから挨拶しなよ」って言ってくださって。それで収録後に楽屋で挨拶させてもらったんです。そしたら淳さんも僕のこと覚えてくれてて、握手してくれて。
楽屋から出た瞬間に号泣(笑)

 (笑)いい話ですね~

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