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戸田倫彰 独占インタビュー

名前戸田 倫彰
とだ のりあき
出身地東京都板橋区
生年月日 1981年8月22日
主な担当番組– やりすぎ都市伝説
– ウルトラ怪獣散歩
– クレイジージャーニー
など
TEL070-4208-1643

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

伊集院光さんのラジオ 
スタジオで笑っている作家の渡辺雅史さんについて
伊集院さんがよくお話されていたので
ラジオを通して放送作家の存在を知りました

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?

矢追純一UFOスペシャル
UFO基地であるエリア51の存在、ロズウェルUFO墜落事件
インターネットのなかった時代にこれらの謎に迫った衝撃のドキュメント


深田 伊集院さんのラジオっていうのはずっと続いている有名なやつですよね?

戸田 そうです。中学2年の時に友達に勧められて聴くようになったんですけど、当時は「伊集院光のUP´S(アップス)」っていう番組名だったかと思います。そのラジオを聴いていたら渡辺さんという放送作家の方がプライベートでもずっと伊集院さんと一緒に遊んでいるという話しを聞いて、楽しそうだな。と漠然と放送作家になりたいと思うようになりましたね。

深田 中学生の頃から放送作家になりたいと思っていたんですね。

戸田 高校に入った頃にはその思いも忘れてしまってましたけどね(笑)僕は高校生活があまり楽しくなかったんですよ。で、ある時に「ベルセルク」っていう漫画を読んでいたら、主人公が所属していた団体「鷹の団」から抜けるっていう場面があったんですけど、その決断に至るまでの描写を見て感銘を受けて高校は中退しちゃったんです(笑)

深田 感銘受けすぎじゃないですか!?(笑)

戸田 そうですね(笑)それで高校辞めてヒマだったのでラジオばっかり聴いていたんですよ。ニッポン放送は電波が悪かったのでもっぱらTBSラジオ系でコサキンさん、爆笑問題さん、極楽とんぼさんとか。それで改めて自分には放送作家になりたいという思いがあったんだと思い出しまして。それで20歳の時に放送作家事務所に連絡を入れて、仕事をお手伝いさせてもらうことになりました。

深田 その事務所が放送作家を募集していたんですか?

戸田 いえ、募集してなかったんですけど電話をかけたら「1回遊びに来てみる?」と言われて、行ってみたらお世話になることになったという感じです。

深田 最初は先輩のお手伝いみたいな感じだったと思いますけど、どれくらいで食えるようになりました?

戸田 5~6年はかかりましたね。ずっとレギュラー番組が1本みたいな状態でした。実家だったんで生活は出来てましたけど。

深田 僕は戸田さんのことを放送作家の中でもトップクラスの変人だと思っているんですけど(笑)学生時代はどんな子供でした?

戸田 実は、小学生から中学2年くらいまではクラスの人気者というかお調子者っぽい感じでしたよ(笑)

深田 へぇ~、それはどんな人気者でした?

戸田 率先してギャグを言ってみんなを笑わせる感じでした。ただ、それも思春期まででしたね。中学2年くらいでリアルな中2病みたいになって、ストレートに人を笑わせることが恥ずかしくなったんですよ(笑)

深田 僕らの世代ってダウンタウンの松本さんの影響で、クラスの先頭に立って笑いを獲る明るい奴は「楽しいだけで面白くない奴」みたいに思っちゃってる節ありましたよね?クラスを盛り上げてくれてる明るい子をナナメに見るって今思えば気味悪い子供だったなと思うんですけど(笑)

戸田 僕も松本さんの影響はありましたし、伊集院さんもラジオではけっこうな毒舌でトークされる方なんですけど、その影響もあってストレートに笑いを獲りに行くのが恥ずかしくなりましたね。それまでは率先してギャグをやるような感じだったんですがそこから学校を中退しちゃうようなタイプの子になっちゃいました(笑)

深田 のちほど戸田さんのオカルト話はたっぷり聞きますけど、オカルト系は学生時代から好きだったんですか?

戸田 小学生の頃から好きでした。おじいちゃんがそういうの好きでよくビデオに録画したのを見てたんですよ。UFO特番とか宜保愛子とか。80年代ってオカルトブームがあったんですけど、その頃ですね。僕も矢追純一スペシャルを見たり、そっち系の本をめちゃめちゃ読んでました。小学生で黒魔術の本読んでましたからね。悪魔召喚の儀式について勉強してましたね(笑)

深田 すごいですね(笑)

岡伸晃 独占インタビュー

名前岡 伸晃
おか のぶあき
出身地愛知県名古屋市
生年月日1984年3月20日
主な担当番組– モーニングショー
– TVタックル
–  ザワつく!金曜日
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

・中島らもさんに憧れて。
コピーライターと放送作家で悩んだ。

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?

・とんねるずのみなさんのおかげでした


深田 岡さんは1984年生まれで早生まれだから僕と同い年なんですけど、中島らもさんに憧れるって早熟な子じゃなかったですか?

岡  そうなんですかね?中学生の時に中島らもさんのエッセイを読み始めて、中島らもさんの自由に生きている感じがかっこいいと思って。中島らもさんがコピーライターと放送作家をやられていたので、僕も中学生の頃からそのどちらかの仕事をやりたいなとぼんやりと思ってました。

深田 そこから放送作家になったいきさつは?

岡  僕は名古屋出身で中京大学に通っていたんですけど、大学在学中に名古屋のコピーライター養成講座に通ってみたんです。中島らもさんもコピーライター養成講座に通っていたので。授業では広告のコピーの書き方などを教わるんですが、CMなど映像広告を作ることに面白さを感じまして。ただ、CMって15秒~30秒と尺が短いので、もっと長尺の映像も作ってみたいと思い、テレビの放送作家についても調べたんです。それで当時、放送作家の高須光聖さんがやっていた「御影屋」というサイトで色んな放送作家の対談記事を見つけて、全部読んだら、放送作家への興味が強くなっていったんですよ。

深田 当時、放送作家を目指す人にとってはあのサイトが参考になってましたよね。このサイトもそうであるといいんですが。

岡  で、就職活動せずに名古屋から上京しました。

深田 なんのアテもなく上京したんですか?どこかの放送作家スクールに入ろうと思って上京したとかではなく?

岡  僕、放送作家の安達元一さんがやっていた「安達塾」の出身なんですよ。名古屋にいる時に夜行バスで安達塾の弟子募集の面接を受けに行って、入れてくれるっていう話を受けて、すぐに上京することにしたんです。

深田 あ~、岡さんは安達塾出身なんですね。

岡  この放送作家名鑑でもインタビューを受けていた政池さんが僕の面接官でしたよ(笑)

深田 へぇ~、そうなんですね。安達塾で仕事を手伝っているうちに個人でも仕事をもらえるようになった感じですか?

岡  そうですね。ちゃんと食べられるようになるまで3年くらいかかってますけど。

深田 仕事が広がったきっかけとかありました?徐々にって感じですか?

岡  2011年に大きな転機があったんですよ。東日本大震災があった時、僕は放送作家の先輩と一緒に番組の会議中だったんですけど、地震の影響で電車も動かなくて帰れないから、そのままその先輩の次の会議にも一緒についていったんです。それがテレビ朝日の「モーニングバード!」の立ち上げ会議で、流れで会議にも参加して、先輩の隣の席に座っていたんですよ。そしたらその夜に会議にいたプロデューサーから電話がかかってきて「君、番組に興味ありそうだったから番組入ってみる?」と声をかけて頂いて。それをきっかけに「モーニングバード!」に参加させて貰ったんです。現在担当している番組はニュースや朝の情報番組の仕事が多いですけど、それは「モーニングバード!」から始まりましたね。

深田 それ凄い話ですね!だって帰れないからテレ朝にいるのはいいとして、会議に参加しちゃうってのが岡さんっぽいというか。肝座ってますよね~。

岡  局内も緊急事態という感じだったので、なんとなく先輩の横に座ってたんですよ(笑)

深田 朝の情報番組やってみてどうでした?

岡  それがめちゃくちゃ刺激を受けたんですよ。元々、ニュースはあまり見ない人間だったんですけど、いざやってみると、世の中で起きたことをすぐ放送に持っていく瞬発力がある所や、記者たちが独自の取材で真相に迫っていく感じが僕は好きで。テレビだから出来る醍醐味なのかなって思います。

深田 僕は岡さんのことを放送作家っぽくない人だと思ってるんですけど、学生時代はどんな感じだったんですか?

岡  中学までは全く女子としゃべれなかったですね。女子としゃべったり優しくされると「この子、俺のこと好きなんじゃないのか!?」って思っちゃうイタイ奴だったんです(笑)高校に入ったら周りはギャルやギャル男だらけで、チャラい人が多かったんで、自分も自然と女子としゃべれるようになって、遊んでました。なので、イケてない時代とイケてる時代の両方を経験してますね(笑)

深田 お笑いは好きだったんですか?

岡  そこまで深いお笑い好きではないですけど、バラエティは大好きでした。当時、僕の周りでは「ダウンタウン派」と「とんねるず派」に分かれていたんですが、僕はとんねるず派で、都会的でスタイリッシュな感じに憧れてました。

藤澤朋幸 独占インタビュー

名前藤澤 朋幸
ふじさわ ともゆき
出身地東京都板橋区
生年月日1978年10月2日
主な担当番組– 帰れマンデー見っけ隊‼
– 帰れま10
– お助け!コントット
– 特捜警察ジャンポリス
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

・作家に誘ってくれた大隈いちろうさん、松本哲也さん
・背中を押してくれたDragon Ashメンバー
・勘違いさせてくれたデーブ八坂さん

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は

・HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP

Q:ディレクターやプロデューサーにアピールしたいことは

・曲がりなりにも15年ほど演者側にいたので、
そのキャリアを活かせる場面はあるかもしれません。
・YouTubeチャンネルやTikTokアカウントの運営を多く担当しているので、
テレビとの連動などでお役に立てそう。


深田 藤澤さんは放送作家になるまでの経歴がかなり特殊ですよね。順を追ってお聞きしますね。10代の頃は芸人をやられていたんですよね?

藤澤 はい、高校1年から大学2年くらいまで芸人として活動していました。高校の同級生とコンビを組んでいたんですけど、僕らはバナナマンさんに憧れていたこともあって、事務所はM2カンパニー(今でいうホリプロコム)にお世話になっていました。

深田 どういう経緯で高校生で芸人をやることになったんですか?

藤澤 僕が通っていた高校がわりと芸能関係が多かったんですけど、同級生の友達にピン芸人がいたんですよ。そいつの家に泊まりに行った時に「ちょっとお試しでやってみる?」っていう話になって、お笑いライブのオーディションを受けに行くことになったんです。

深田 藤澤さんは学生時代の友達が凄いメンバーですもんね?ドラゴンアッシュとか友達ですもんね?

藤澤 メンバーのうち3人が高校の同級生なので、もう20年以上の付き合いになりますね。

深田 他に学校にはどんな人がいました?

藤澤 先輩に市川海老蔵さんがいらっしゃいました。

深田 僕みたいな田舎もんからしたら考えられない環境ですよ(笑)で、芸人を辞めることになったのはなんでですか?

藤澤 今でもやっているライブなんですけど人力舎が主催している「バカ爆走!」によく出させてもらっていたんです。そのライブでネタをやって10週勝ち抜いたらテレビによく出ている芸人さんたちと同じライブに出ることが出来たんですよ。当時はボキャブラ全盛期だったのでボキャブラに出ている人たちと同じ舞台に立てるってことで僕らも頑張ってやって、9週まで勝ち抜くことが出来たんです。

深田 凄いですね!

藤澤 でも10週目挑戦の時に僕も相方も緊張してしまったのか、ネタ中に2人同時にセリフが飛んじゃったんです。で、結果も負けてしまって。その後、もう一度、9週目までは進めたのですが、また10週目で負けちゃって。まぁ、それだけが理由ではないんですけど、今思えばそこで心が折れてしまって徐々に芸人からフェードアウトしたっていう感じですね。

深田 その後、音楽の道に行ってますよね?

藤澤 はい、その相方が元々バンドがやりたかった人間で。僕は正直、さほど音楽には興味なかったんですけど「電気グルーヴでいうところのピエール瀧さんみたいなポジションになってくれればいいから」って説得されてやることになりました(笑)

深田 確かエイベックスでしたよね?

藤澤 最終的にエイベックスのヴァイナルレコーズっていうレーベルにお世話になりました。

深田 CDは何枚くらい出してるんですか?

藤澤 全国流通した音源はシングル2枚、アルバム2枚だと思います。芸人は5年、バンドは10年やったので、およそ15年ほど出る側を経験させてもらいました。

深田 そこからどうやって放送作家に?

藤澤 芸人時代からお世話になっている大隈いちろうさんという先輩がいまして、その方は芸人からディレクターになられた方なんです。で、僕のバンドが解散したタイミングで電話をくれて「作家とか興味あるなら俺が面倒見るけど?」って誘ってくれまして。最初は迷ってたんですけど、やらせてもらうことになって、それで入れてもらったのがNHKの「Shibuya Deep A」という番組なんです。そこには大隈さんと同じく、芸人時代にめちゃくちゃ可愛がってもらっていた先輩の松本哲也さんという方も作家で入られていて。僕にとっては大好きな先輩2人と仕事させてもらえるというありがたい環境でした。

深田 ドラゴンアッシュに背中を押してもらったというのは?

藤澤 僕が放送作家をやろうかどうか迷っている時に、ほとんどの知人が反対してたんですよ。僕もその時30歳過ぎてましたし「今から放送作家とかやって大丈夫?」みたいな感じで心配されて。そんな中でドラゴンアッシュのメンバーは「藤澤はモノを書く仕事をした方がいいと思うから絶対やった方がいいよ」って言ってくれて。芸人を辞めた後、僕が脚本を書いて降谷建志(Kj)くん主演の自主映画を撮ったことがあったんですよ。それもあって僕が放送作家になるっていうのを後押ししてくれて僕もやってみようと思えたんです。

深田 ドラゴンアッシュに背中押されるってすごいですね。デーブ八坂さんに勘違いさせてもらったっていうのは?

藤澤 放送作家を始めてから、あるときに若手作家が集まる飲み会で八坂さんと初めてお会いしたんですけど、そこで僕が楽しくしゃべってるのを見て「藤澤君は放送作家向いてるよ!」って言ってくださったんです。番組はもちろん、企画会議すら一緒にやったこともないのにそんなことを言ってくれて。「いろんな番組のエンドロールで名前をよく見る八坂さんにそんなこと言ってもらえるなら俺いけんのかな?」って、良い意味で勘違いできたんですよね。しかもその後、僕と1回も仕事をしたことがないのに番組に呼んでくださったんですよ。八坂さんには本当に感謝してます。

深田 このサイトで八坂さんの話はよく出るから、やっぱりあの人凄いな~。

藤澤 僕の人生は本当に人に恵まれて、人に救われてここまでやってきたのでその人たちになんとか恩返ししたいですね。

林田晋一 独占インタビュー

名前林田 晋一
はやしだ しんいち
出身地三重県松阪市飯高町
生年月日1983年4月19日
主な担当番組– 月曜から夜ふかし
– 1周回って知らない話
– クイズ!脳ベルSHOW
– ヒルナンデス!
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

松本人志を崇拝し、「放送室」きっかけで高須光聖さんに憧れて。
(※僕ら世代が作家を目指す理由で、一番ベタなパターンです)


深田 こういう取材受けないタイプだと思ってたから、意外だったよ。

林田 数多いる放送作家の中でも、自分は“引きがないタイプ”の作家だとちゃんと自覚しているので…。他の皆さんと違って、大した実績も得意分野もないし、そもそも自分の話をすることが苦手なんですよ。薄っぺらい人間だってバレるから。ただ、作家界で唯一の「友達」がセミナー同期の深田と米田だけだから。深田さんに言われたら断れませんよ。ちゃんとここ、切らずに書いてくれます?「あいつ普段、会議で全然喋らないくせにノリノリで取材受けてる」って思われるから…。

深田 林田はそういうの気にするタイプだもんね(笑)林田とは日テレ学院の同期で、放送作家になる前から知ってるのである程度の経緯は知っているつもりだけど、細かく放送作家になるまでの経緯を聞いてもいい?読んでくださっている方、日テレ学院とはあの売れっ子放送作家の興津豪乃さんも通っていた伝統ある放送作家スクールです。

林田 長くなる上に何も面白くない話で恐縮なんですが、大学3年の就活の時期まで、将来やりたいことがなかったんですよ。生まれ育ちは三重県の山奥で、当時は最寄りのコンビニまで車で1時間かかる超ド田舎だったんですけど。親が教師だったんで、中学生ぐらいまでは自然に「将来、先生になる」って思ってたんですよ。でも高校生ぐらいで何か違うなって思って、「福祉の仕事しよう」って高3の時に受けた大学が全滅で。浪人中、「それも違うな」って思って、当時なんとなく興味あった心理学系に絞って受験するという超フワフワした感じで、大学に入って上京しました。

深田 大学、早稲田だもんね。

林田 第一文学部総合人文学科心理学専修ってとこです。でも大学に入っていざ心理学を学んだら、「これを一生の仕事にする感じじゃないな…」って思って。やりたいことが見つからないまま、大学3年秋の就活シーズンになっちゃいまして・・・。

深田 そこでテレビ業界に行こうと?

林田 そういうわけでもないんですけど。今はわからないけど、当時テレビ局って他の業界より採用試験が早くて、みんな練習がてら受けてたんですよ。僕も一応、受けてみようとキー局と関西ローカル局、一通りエントリーして、3次面接で落ちた日テレ以外は全部1次のWEBエントリーで落ちて・・・。で、ここでようやくアンケートの本題なんですけど、僕、相当なお笑い好きだったんですよ。

深田 そのイメージないよね。

林田 「ごっつええ感じ」で松本人志の圧倒的笑いの虜になって、当時、量産されていた「松本信者」になって。憧れすぎてて、あえて敬称略で呼ばせていただきますけど。「ごっつ」や「1人ごっつ」のビデオ、TSUTAYAで何百回も借りて見てその流れで他のお笑いも片っ端から見るようになって。大学時代、毎週、ルミネtheよしもと行ってましたからね。1人で。

深田 意外だわ~。全然知らなかった。

林田 話は浪人時代に戻るんですけど、名古屋の予備校の寮で一緒だった辻ってヤツと、「ごっつが好き」って共通点で仲良くなって。彼に「放送室」を教えてもらって。寮にはテレビがなくて娯楽がラジオだけだったんで、すぐ聴いてみたら「なんじゃこれ、面白っ!いや、それより神様・松本人志と対等に楽しそうに話してる高須さんって誰?放送作家って何?」ってなって。

深田 それが放送作家を知ったきっかけ?

林田 そうそう。俺ら世代で作家を目指す人で一番ベタなパターン。松本さんに心酔して、高須さんにたどり着くっていう。で、就活の時に「自分、お笑い好きだけど芸人になって人前に出るタイプでは絶対にない。でも放送作家って興味あるな~」って思って。日テレ学院のバラエティ作家コースに通うことにしたんです。 

深田 林田は在学中に日テレ学院に通ってたんだよね。俺は大学卒業してすぐに上京して通ったけど。林田は同い年だけど浪人してるからあの時は大学4年だったのよね。

林田 大学4年の4月ですね。ちょうどその年、就活が学生の売り手市場だったんですよ。周りの同級生がすんなり大手企業に内定もらってたから「就活って簡単そうだし、とりあえず1~2年は放送作家を目指して、ダメなら就職すればいいや」ぐらいの軽い気持ちでした。その2~3年後に就職氷河期になって、後戻りできなくなるんですけど…。

深田 そうか。でも、俺も林田も日テレ学院に半年通ってみて特に道は開けずだったよね。

林田 そう、セミナーを主宰してたオフィスぼくらに入れたのはたしか小島さんって人だけだったもんね。で、大学4年の9月にセミナーが終わったタイミングで、10月からニッポン放送で「THE放送サッカーズ」って番組が始まるんですよ。月曜日が高須さん、火曜日がおちまさとさん、水曜日が石川昭人さん、木曜日が鈴木おさむさんって、有名放送作家の方々が日替わりでパーソナリティーを務める、半年限定の番組。

深田 あ~、そうだったっけ。そのタイミングで始まったのか。

林田 何か作家になるヒントはないか…と、聴いてみたら木曜日、鈴木おさむさんの第1回目の放送で「今まで断ってたけど、この度、弟子を募集しようと思います。弟子志望のリスナーは、毎週ネタを送ってください」的なことをおっしゃってて。「これだ!このチャンスがあったから、日テレ学院で何もなかったんだ」と思って(笑)ハガキ職人の経験とかなかったけど、メールでネタを送り続けたんですよ。そしたらわりと毎週のように読まれて。

深田 で、そこから?

林田 よく読まれてる人って4~5人で、中でもたぶん僕、1番採用されてたんですよ。で、半年限定の番組が終わる3月に、「何人か実際に会って、面接して決める」って流れになって、僕も呼ばれるわけです。ニッポン放送に行って、おさむさんとアナウンサーの増田みのりさんと面接しました。その後、高須さんの奥様になる。

深田 へぇ~。番組のアシスタントやられてたんだよね。

林田 呼ばれたのは僕を入れて3人。大体みんな同世代だったはず。緊張してあまり覚えてないけど、肌感覚で「この3人の中なら自分が選ばれるな…」って思ったんですよ。他のお二人には失礼な話ですけど。面接したのが大学4年の3月半ば。その結果が、3月29日木曜日の最終回の生放送で発表される流れで。早稲田の卒業式が3月25日だったんですよ。だから無職で大学卒業したんです。周りに「どこ就職するんだっけ?」って聞かれてもごまかしたりして。

深田 でも合格の自信あったんでしょ?

林田 そうそう、だから「俺は4月から鈴木おさむの弟子になって、そこから放送作家になるのか~」って思ってて。29日の当日、生放送をドキドキしながら聴いて。そしたらおさむさんが「3人同時に面接したけど、実はその日にスケジュール合わなかった地方の子が1人いて。別日で面接して…弟子はその19歳の福田くんって子を取ることに決めました!」って(笑)

深田 残念!(笑)それがあの福田卓也さんね?

林田 そう。僕は面識ないですけど、錚々たる人気ラジオ番組やられてたり、テレ東系の番組をよくやられてる方ですよね。ということで、4月から無職が決まりました。

深田 放送作家になってからおさむさんにそのことは話したことあるの?

林田 ないんですよ。「ペケ×ポン」って番組でご一緒させていただいたんですが、とんでもない売れっ子作家さん揃いの緊張感ある会議で、1番下の若手作家が、プライベートなお話をできる空気じゃなくて…。

深田 で、その続きはどうなるんだっけ?

林田 失意の中、「放送室」を聴いてたら、なんとそのタイミングで高須さんが「弟子を募集する」ってお話されてるんですよ。「これだ!日テレ学院で何もなかったのも、おさむさんの弟子に落ちたのも、全ては自分が作家を目指すきっかけになった『放送室』で高須さんの弟子になるためだったんだ!神様、それを早く言ってよ」って感じで(笑)

深田 さすが粘り強いね(笑)

林田 で、たしか700~800人の応募があってその中で選ばれた人を3回ぐらい面接して絞っていく流れだったんですけど、最後の5人まで残って。ちなみにその5人の中には、日テレ学院の同期、深田憲作さんもいて。最終面接は、当時、赤坂にあった高須さんの事務所に呼ばれてでも空気的に「全員採用だけど、とりあえず顔合わせ」的な感じだったから「高須さんの弟子になるのか~、深田とは長い付き合いになるな~、よろしくな!」ぐらいに思ってて。

深田 (笑)

林田 ところが数日後、「ご期待に添えることはできませんでした」って不合格通知のメールが来て、深田を含めた3人だけが合格して。地獄に突き落とされましたよ。今でも福田さんやその3人には一方的な敗北感を持ってます。

深田 でも、確か俺の記憶だとその頃は制作会社でリサーチのバイトやってたよね?

林田 実はそうなんですよ。っていうか、まだエピソード的に作家にもなってないけどこんな面白くない話を長々してて大丈夫?ちゃんとバッサリ切ってくださいね。

深田 一応、放送作家になったきっかけのブロックは取材したみなさんが話しくれたことを出来るだけそのまま書くようにしてるんで(笑)

林田 日テレ学院で知り合ったキシさんって人のつながりで、ネットコンテンツのネタ出しをさせてもらうようになって、そこで出会った、今でもめちゃくちゃお世話になってる作家の先輩の紹介でリサーチャーとして雇ってもらえて。

深田 そのリサーチから仕事広がった感じ?

林田 一応、「作家見習い」って感じでネタ出しもさせていただいてたんですけど基本は「リサーチャー」だったからなかなか広がらなかったですね。ちなみに、初めてリサーチのレギュラーとして会議に参加させていただいたのが、日テレの「恋愛新党」っていう今じゃ考えられない、堺雅人さんMCの番組で。そのちょっと後にテレ朝の「リーダー’s ハウトゥ ブック」っていう城島リーダーの番組の会議にも出させていただいたり。で、2009年4月に日テレで土曜のド深夜でやってた「アイドルの穴」って番組に、ノーギャラ作家で入れていただいたんですよ。アイドル好きなら知らない人はいない、日テレの毛利さんの番組。MCがまだ再ブレイクしかけた頃の有吉さんで、水着のアイドルたちが日テレジェニックを目指す笑いとセクシー重視の、下世話なドバラエティ番組。ド深夜の低予算番組だったから、作家の人数も少なくて。何の経験もない僕が、ロケ台本ガッツリ書かせていただいて、ナレーションも毎週書かせてもらって。情報ゼロのドバラエティで、ロケからトーク企画からドッキリ企画からオールジャンルの番組だったからめちゃくちゃ勉強になりました。しかもアイドルにお仕置きする気持ち悪い男の役として、番組にも出てたんですけど、毎週、ロケ現場に行くから、自分が書いた台本のせいで、演者さんがスベるのも目の当たりにできたんですよ。

深田 それは貴重な体験だね。

林田 そこから6年間、「アイドルの穴」と姉妹番組の「アイドル☆リーグ!」って番組で毎週台本書いてはロケに行って出演して、その時の経験が作家人生の基盤になっていますね。おかげで、台本書く時は第一に現場を想像するようになったし、今でも自分が背負ってる番組の収録は、必ず行くようにしてます。当たり前のことですけど。ちなみに、気持ち悪い役で番組に出るようになったのは、チーフ作家の方に「君、出れば?」って指名されたからなんだけど。何年も経った後に聞いたお話だと「作家は現場を知らなきゃダメだから」って、駆け出しの僕が現場の空気を学べるように言っていただいてたみたいで。今でもお世話になりっぱなしのその方には、とにかく足を向けて寝られません。

深田 いい話だね~。

林田 それからちょっとずつ作家として呼んでいただけるようになって、28歳ぐらいで独立して個人になってって感じです。長すぎる上につまらないよね?これ、佐藤大地さんのインタビュー並につまらなくなってるでしょ?

深田 いや、大地さんの記事つまんなくなかったし、つまんなかったとしたらインタビュアーの俺の責任だからやめてくれ(笑)

安部裕之 独占インタビュー

名前安部 裕之
あべ ひろゆき
出身地大分県出身
生年月日1976年4月3日
主な担当番組– トリビアの泉
– ジョブチューン
– 乃木坂工事中
– ナニコレ珍百景
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

日本テレビの採用試験を受けた際に知り合った
水田伸生さんに秋元康さんを紹介していただいた


深田 僕はこの話は安部さんからお聞きしたことがあるので存じ上げていますけど、かなり特殊な経緯で放送作家になられていますよね。東大法学部卒という話はのちほどお聞きしますので、まずは東大を卒業した後の話からお願いします。

安部 分かりました。僕は学歴で言えば問題ないはずだったんですけど、たぶん自己アピールみたいなのが得意じゃなくて、テレビ局や広告代理店はほぼ全て就職試験を受けたんですけど、ほとんど面接で落ちてしまったんです。それで唯一受かった音楽専門チャンネルのスペースシャワーTVに就職したんです。音楽は好きだったし、東大からスペースシャワーTVに就職っていう経歴も面白いかなと思ってそれなりにやる気を持って就職はしたんですけど、いざ働いてみると全然仕事が出来なくて。

深田 安部さんが仕事出来ないって想像できないですけど、どういう出来なさですか?

安部 まずはよく遅刻する(笑)今は直ったんですけど当時は朝起きれなかったんですよ。あとは僕が配属されたのが営業だったので、コミュニケーション力とメンタルのタフさが必要な仕事だったんですけどそれが僕には無かったんです。

深田 それで先輩から怒られて仕事が嫌になっていったんですか?

安部 いえ、先輩とか同僚はいい人ばかりで「はじめは仕事出来なくても仕方ないよ」っていう感じで優しくしてくれてたんですけど、1人で心が折れて会社に行くのが辛くなっていきましたね。それで入社半年で辞めちゃったんですよ。

深田 その後はしばらくフリーターですか?

安部 3年くらいフリーターをしていました。で、その当時、日テレが一時期だけ特殊な採用試験をやっていたんですけど、フリーター生活も3年経ってこのままだとヤバいぞと思い始めた頃に、その情報を知ったんです。60~70人くらいまで絞った段階でいくつかの班に分かれて、夏休みの期間を使って「番組制作実習」というのをやって、最後に班ごとに30分の番組を制作して発表するっていう採用方式だったんですけど、「これなら自分でもイケるんじゃないか?」って思ったんですね。ただ、その試験は新卒だけが受けられるものだったので年齢をウソついて受けたんです。

深田 それが凄いですよね(笑)

安部 その時、僕は確か26歳なんですけど、僕から見たら他の子たちはまだ現役の大学生ですから実習をやっていても「みんなまだ子供だな~」と思って(笑)26歳の僕は心の余裕が違ったわけですよ(笑)これなら受かりそうだなって手応えがあったんですよ。

深田 その年齢くらいの4、5歳の差は大きいですもんね(笑)

安部 それで13~14人くらいに絞られたところまで残って、あとは社長面接を残すだけとなった時に健康診断があったんです。その時に大学の卒業証明書を提出しなきゃいけなくて「これはここで正直に言うしかないな」と思って「実は年齢ウソついてました」って白状したんです。それで後日、人事担当の人から電話があって「人事部で話し合いをしましたが、採用は出来ないということになりました」と。

深田 まあ、そうなっちゃいますよね。

安部 そしたら、番組制作実習で僕のいた班についてくれていた日テレ社員の水田伸生さんという方から電話があって「中途採用の試験を受けないか?」と言ってくださって。

深田 芦田愛菜ちゃんのドラマ「Mother」とか映画の「舞妓Haaaan!!!」を監督した凄い方ですよね?

安部 そうです。ただ、中途採用の試験も結局落ちちゃって(笑)その後にまた水田さんから連絡があって「君は放送作家が向いていると思うから秋元康さんを紹介するよ」とおっしゃってくれて。それで秋元さんの事務所に所属させていただくことになったんです。

深田 凄い経歴ですよね。そこからどうやって番組に入れてもらったんですか?

安部 秋元さんが放送作家として担当されていた「とんねるずのみなさんのおかげでした」の会議に連れて行ってもらって、1番下っ端の作家として入らせてもらいました。

深田 そこから仕事が広がった感じですか?

安部 確か最初の1~2年は全然広がらなかったと思いますね。「みなさん~」の会議でいつも座る席が酒井健作さんの隣だったんですけど、健作さんの出す宿題がいつも面白いなと思っていて、この人に自分の考えたことを伝えたいと思って、会議中に思いついた番組企画案をメモみたいに書いて渡していたんです。授業中に先生に隠れてメモを回すような感覚で。そんなことをやっていたら僕の考えることを面白がってくれて、健作さんが企画会議に呼んでくれるようになったり、「トリビアの泉」にも呼んでくださったんですよ。そこから色々な仕事に呼んでもらえるようになったので酒井健作さんは恩人ですね。放送作家になって初めて「安部君の考えることは面白いからやっていけると思うよ」と言ってくださった人です。

深田 ちなみに安部さんが知り合った頃の秋元さんは何をやられている時期ですか?

安部 ちょうどAKB48を立ち上げるくらいの時期ですよ。だから、僕はAKB48の1回目の公演も現場で見に行ってますしね。

深田 あの7人しかお客さんがいなかったっていう伝説の初公演ですよね?そこに立ち会ってるって凄いですね!

 

澤井直人 独占インタビュー

名前澤井 直人
さわい なおと
出身地京都府出身
(地元:滋賀県)
生年月日1990年5月25日
主な担当番組– 世界の何だコレ!?ミステリー
– どうぶつピース
– シブザイル
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

・キスお化け屋敷
・深夜時代のすべらない話の宮川大輔さん
・なかよしビクトリーズさん(元オレンジサンセット)

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?

・人志松本のすべらない話
・ふくらむスクラム(いちばんスクラム)
・M-1グランプリ
・ミスタービーン


深田 アンケートに書いている「キスお化け屋敷」っていうのは何ですか?

澤井 小学校の頃の話なんですが…。これが、企画!?というものを最初に考えた原体験なんですよ。

深田 なんか面白そうですね(笑)ちなみに澤井さんはどんな小学生だったんですか?

澤井 自分で言うのも何ですが…小学生の頃は、クラスメイトたちを束ねるのが好きな、いわゆる“明るくて人気者”だったんですよね。面白いかどうかは別として…(笑)

深田 へぇ~。放送作家になる人の中では珍しいような気がします(笑)

澤井 そんなこともあって学校終わりはいつも友達が僕の家に遊びに来ていたんですけど、ある時期から飽きてみんな来なくなってきていたんです。それで友達を呼び戻すためになんか面白いことをやりたいなと思っていたんですけど、そこで考えたのがお化け屋敷で。手作りのお化け屋敷を作って遊んでいたんです。

深田 そこまでは小学生っぽくていいですね(笑)

澤井 そのお化け屋敷のことを学校でクラスメイトの女子に話したら「私も混ぜて欲しい」と言ってきました。でも、その女の子は少女漫画がすごい好きで、キスへの憧れを強く持っていた女の子だったんですよ。

深田 ほぉ(笑)

澤井 それを聞いてお化け屋敷のゴールにその女の子が待っていて、ゴールしたらその子がキスしてくれる「キスお化け屋敷」っていうのを考えたんです(笑)

深田 もうちょい詳しくシステムを聞いていいですか?(笑)

澤井 男子がお化け屋敷に入る時は目隠しをして手を後ろで縛った状態で進むんです。ゴールには灯りがあって、その光に向かって進むんです。それでゴールしたら女の子が唇にキスしてくれるんですよ。だから、男子はキスしてくれたのが誰か全く分からないんです。もっと言えば、今も当時の友達はキスしてたのが誰か知らないんですよ。その女の子は別に隠して欲しいって思ってなかったんですけど、僕はその子のプライバシーを守ってあげようと思って一切誰にも言ってないので。

深田 そこはちゃんとしてますね(笑)

澤井 その「キスお化け屋敷」が一大ブームになって、同い年だけじゃなく先輩もうちに遊びに来てくれるようになったりしてすごく嬉しかったんですよ。僕の人生において人を楽しませるという成功体験を初めてしたのが「キスお化け屋敷」だったんです。

深田 面白いですね。なかなか切れ味鋭い話だと思います。それで具体的に放送作家を目指したきっかけは?

澤井 僕の通っていた高校が京都にある進学校で、みんな東大・京大・早稲田・慶応とかを目指すような感じで、僕も早稲田を目指してたんですよ。でも現役では合格できなくて、特に何がしたいとかもないまま、浪人することにしたんですね。その浪人時代にテレビで見たのが「ふくらむスクラム!!」という番組で。

深田 あ~、分かります。フジテレビでめちゃイケ、はねるのトびらを生んだ「新しい波シリーズ」から派生した番組ですね。前田敦子さん、かまいたちさん、ニッチェさんが出ていた。

澤井 そうです。僕が見た時にやっていた企画が、芸人さんがふんどしに火をつけて、火がお尻に到達するギリギリまで粘って海に飛び込んで火を消す企画だったんです。そこで、オレンジサンセットというコンビの岡田さんがギリギリまで我慢しすぎて火だるまになってたんですよ。それを見て腹ちぎれるくらい爆笑しました。後で調べてみたらその岡田さんが僕と同い年だったんです。自分と同い年の人がテレビでそんな面白いことをやっているのが凄くカッコよくて!それで僕もお笑いの道に行きたいなと思ったんです。

深田 それもまた面白いきっかけですね。「お笑いの道」っていうのは最初は芸人を目指したんですか?

澤井 最初から放送作家にはなりたかったんですけど、まずは大阪のNSCに入ったんです。鈴木おさむさんが放送作家をやる前に芸人の気持ちを分かるために芸人として舞台に出てた、みたいな話を知って、僕もまず芸人を経験してみようと思って。

深田 なんか取る行動がいちいち面白いですね(笑)NSCの何期生ですか?

澤井 大阪NSC35期です。同期はゆりやん、ガンバレルーヤ、かが屋の加賀君、からし蓮根、ラニーノーズとかがいました。

深田 お~、豊作の年ですね。ちなみにその年はゆりやんが主席で卒業しているんですよね?NSC時代から面白かったですか?

澤井 そうですね、圧倒的に面白かったですよ。NSCのときってみんな尖っていて、他の芸であまり笑ったりしないんですが、ゆりやんがネタをやるときはみんなかぶりついて見ていましたね!あと、かが屋の加賀くん!NSCって全部で7クラスあったんですけど、たまたま同じクラスで。多分最初の3か月くらいでNSCはやめているんですけど…ネタ見せて1人でやっていた“センターマイクさん”ってコントが衝撃的でした。東京に来て、数年後“かが屋”をテレビ見て声を出して驚いたのを覚えています。

深田 NSCを卒業した後は?

澤井 卒業後に上京して最初はヨシモト無限大ホールでバイトしていたんですけど、2か月くらいで辞めまして(笑)その後、オレンジサンセットの岡田さんにTwitterでDMを送ったんです。僕が放送作家を目指した経緯とかも書いて、それで「お話させてください!」ってお願いしたら返事をくれて。それで渋谷のドトールでお茶しましたね。その出会いからは…岡田さんとは毎日のように新宿で会ってネタの話や、お笑いの話を朝から夜までしていましたね。話したりず…バイトも一緒のラーメン屋で働いていました。タイミングもよく、オレンジサンセットさんが主催の新宿バティオスでやる若手芸人のお笑いライブのお手伝いをさせてもらうようになったんです。そこで色々な芸人さんと一緒にコーナーとか考えたり、ライブ終わった後に皆でお笑いの話しながら歌舞伎町にある“めだか”って安い居酒屋でライブのことについて話し合ってました。お金はほんとなかったですが、青春でしたね。

深田 行動力も凄いし、ちゃんとそれが実ってますね。そこからどうやってテレビの放送作家をやるようになったんですか?

澤井 それも僕が好きな番組をやっている放送作家の方に何人かDMを送ったんですよ。その中で唯一、丁寧に返信をくれたのが竹村武司さんでした。

深田 優しいな~。

澤井 いきなり、TBSの企画会議に呼んでくださって、そこで企画書のフォーマットを見せて頂いてずっとそれを真似して企画書の練習してましたね。

深田 行動力もすごいし、澤井さんは努力も凄いですよね。企画書もめちゃくちゃ書いてたんでしょ?

澤井 何年か前までは、年間400本ペースで書いてましたね。もう今はそんな数書けませんが…。

深田 テレビ関係の人は分かると思いますが、異常者のレベルですよね(笑)年間400本は一握りの変人しか到達できない領域ですよ。

オグロテツロウ 独占インタビュー

名前オグロテツロウ
出身地東京都出身
生年月日 1980年
主な担当番組– 怒り新党
– TVタックル
–ノンストップ
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

・何を仕事にしようか定まらなかった時に、
 初めて「これを目指したい!」と思えた職業が「放送作家」

・専門学校在学中から作家・リサーチ事務所で働くように。

Q:人生で1番好きだった番組は?

・めちゃ×2イケてるッ!


深田  アンケートに書かれている「何を仕事にしようか定まらなかった時」っていうのは何歳の時の話ですか?

オグロ 18歳頃の浪人時代の話ですね。何かしら目指さないといけない中で、とりあえず、手に職だ!と思って、薬学部志望で浪人していたんですけど、受験勉強が嫌いで嫌いで(笑)。強い意志があったわけでもないので、全然頑張れなかったんですよ。そんな浪人時代、テレビやラジオ番組にハガキを送っていたら、ちょこちょこ採用されることがあって。「これを職業にしたら楽しいだろうな」と思って、薬学部を目指すのを辞めて東放学園に行くことにしたんです。

深田  テレビスタッフを目指す人が通う専門学校ですね。

オグロ そうですね。その東放学園に、放送作家事務所の社長がゲスト講師としてくる授業があって、その事務所が「奇跡体験!アンビリバボー」のリサーチを担当していたので番組で使えそうなネタを調べて持ってたんですよ、講義の後に。そしたら、「目の付け所は悪くない」と言ってもらえて、その事務所にお世話になることになったんです。だから、テレビ業界での最初の仕事は「アンビリ」のリサーチでした。

深田  すごいですね。「アンビリ」のリサーチなんて死ぬほど大変だったでしょ?

オグロ いや~大変でしたね、毎週“奇跡の話”を探して提出する仕事なんで(笑)。僕が参加させてもらった時点で、もう何年もやっている番組だったので、わかりやすい調べ方はもう済んでるわけですよ。時間かけたからといって見つかるわけでもないし、めちゃくちゃ大変でした。でも、今思えばですけど、あの番組が1つ目の仕事でよかったなと思いますね。勉強にもなりましたし、あれよりしんどいと思う仕事はその後あまりないので。今も番組が続いているのがホントスゴイです。

深田  そうですよね。ではリサーチではなく構成で初めて関わった番組って何ですか?

オグロ 初めて台本を書かせてもらったのは「JAM The World」というラジオ番組のコーナーですね。テレビに関しては…あまりちゃんと覚えてないんですよね(笑)たぶん、通販番組だったような気がします。

深田  ちなみにオグロさんって学生時代はどんなキャラだったんですか?一説によると悪かったという話もありますが(笑)

オグロ それ(北本)かつらさんが言ってるだけですよ(笑)かなりおとなしい部類の人間だったと思います。

深田  オグロさん、穏やかですけど見た目はけっこう怖いし、東京の新宿出身だから「悪かった」って言われても不思議ではないですからね(笑)ちなみにお笑いは好きだったんですか?

オグロ お笑いも好きですよ。高校の時は、ナインティナインの「オールナイトニッポン」にハマってハガキを投稿してました。ナイナイは「とぶくすり」「殿様のフェロモン」くらいからずっと見てますね。他のテレビ番組だと子どもの頃は「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」、その後、「みなさんのおかげです」「ごっつええ感じ」・・といった感じで。

村上卓史 独占インタビュー

名前村上 卓史
むらかみ たかふみ
出身地神奈川県出身
生年月日 1966年9月26日
主な担当番組– ジャンクSPORTS
– 炎の体育会TV
– 元気が出るテレビ
– 学校へ行こう
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

「元気が出るテレビ!!」の放送作家予備校です


深田 テレビ業界ではわりと知られていることですが、村上さんは「元気が出るテレビ!!」の放送作家予備校出身ですよね?

村上 そうです。放送作家予備校の第2期生ですね。

深田 同期にはどんな方がいらっしゃったんですか?

村上 同期に都築(浩)くんとか、おち(まさと)くんがいて、1期上にそーたにさん、田中直人さんといった方々がいました。

深田 すごいメンツですよね。村上さんはテレビで募集を見て応募されたんですか?

村上 実は僕は「元気が出るテレビ!!」を毎週見ていたわけではなかったんですよ。ずっと裏の大河ドラマを見ていたんですけど、20時45分に大河が終わって、ある日、たまたまチャンネルを回した時に「元気が出るテレビ!!」で放送作家予備校の募集告知をやっていたんですよ。元々テレビは好きだったので、面白そうだなと思って応募してみました。

深田 書類で通って、面接に呼ばれたんですか?

村上 そうですね。会場に行ったら100人くらい候補者がいて。僕は状況があまりよく分かってなくて、テレビの仕組みも知らないから「ここで合格すれば日本テレビに入れるのかな?」みたいな感じで思っていました(笑)。

深田 それ、村上さんは何歳の時ですか?

村上 大学2年生の時。

深田 元々テレビ業界志望だったんですか?

村上 テレビが好きだったから「入れたらいいなー」くらいには思っていたけど、テレビって遠い世界の感覚だったから、うっすら思ってた程度ですね。当時は大学で国語の教員免許を取っていて、高校の先生になるつもりでした。

深田 結果、放送作家予備校をきっかけに、ロコモーションという制作会社に所属することになったわけですよね?

村上 「元気が出るテレビ!!」を作っているIVSテレビという制作会社の子会社であるロコモーションに所属することになりました。面接会場にいた100人くらいの中から、15人くらいが採用されて所属することになって。ただ、1年後には半分くらいが辞めちゃいましたけど。

深田 辞めた人は自分の才能に限界を感じてなのか?体力的にきつかったのか?どっちですか?

村上 どっちもあると思うけど、精神的にきつかったってのが大きいかな。才能という意味では、僕も「えらい場所に来ちゃったな」とは思った。そーたにさんのネタの面白さとかを目の当たりにして「間違えてジャイアンツに入っちゃった」って思ったから(笑)

深田 周りの人たちを見て、みんな凄いなと思いました?

村上 思った(笑)無理だなと思いました。だから自分に何が出来るかって考えたときに早い段階で「スポーツ」という、自分の得意ジャンルを見つけられてよかったな、と。

深田 そーたにさん、田中直人さん、おちまさとさん、都築浩さんって、同世代にすごいメンバーが揃っていますもんね。ロコモーションでいうと下の代には堀江利幸さんもいますよね。それって才能溢れる人たちが集まったのか?テリー伊藤さんを始めとした先輩方のスパルタ教育があったから凄い人たちが育ったのか?どうなんでしょうか?

村上 どうなんだろう…でもやっぱりテリーさんは人を見る目があったんじゃないかなと。もちろん自分のことはそんな風には思っていませんが、それなりの数の中から選ばれた人たちなので、ある程度の才能がある人たちが集まったっていうことはあったのでは。

深田 村上さんが最初に担当した番組は何だったんですか?

村上 僕はロコモーションの親会社のIVSさんが当時制作していた番組の中から「元気が出るテレビ!!」と「ねるとん」に配属されました。

深田 村上さんといえばスポーツのイメージがありますけど、スポーツの番組に関わるようになったきっかけはあるんですか?

村上 日本テレビでやっていた「徳光&所のえらい人グランプリ」というスポーツバラエティ特番ですね。「行列のできる法律相談所」「世界一受けたい授業」の演出をやっている髙橋利之さんと企画から組んで実現した番組。それがきっかけで当時、彼が勤務していたスポーツ局に出入りするようになり、オリンピックとか、プロ野球とか、バレー中継の仕事に関わるようになっていったんですよね。その後、K-1が始まった頃にフジテレビのスポーツ班からお声がけいただいたり、作家仲間の鮫ちゃん(鮫肌文殊氏)の紹介でTBSの「筋肉番付」に入れてもらって、世界陸上や世界バレーもやらせてもらうようになったり、っていう流れですね。

深田 すごい仕事の広がり方ですね。村上さんより上の世代でそういう風にスポーツの番組をたくさん手掛けられている方っていらっしゃったんですか?

村上 スポーツニュースとかにはいたと思うけど、バラエティから来た作家ではあまりいませんでしたね。というのも「珍プレー好プレー」以外で、スポーツバラエティって、それまではほぼなかったので。90年代に我々がスポーツのお仕事をするようになった頃から中継の演出やアスリートのテレビ出演の在り方が少しずつ変わってきて2000年に入って「ジャンクSPORTS」みたいなスポーツ局制作のレギュラー番組が始まって…それがきっかけかどうかは分からないけど、その頃からスポーツバラエティがメジャーになっていった感じだと思います。

深田 今はスポーツ全般に詳しくなられていると思いますけど、元々は何のスポーツが好きだったんですか?

村上 野球とプロレスですね。それがベースです僕は子供の頃から大洋ファンだったから。

深田 あ~、ジャイアンツではないんですね(笑)

村上 神奈川出身だから。あとは大学ラグビーも好きだったし、20歳ぐらいから競馬も好きになったかな。

深田 それらに共通しているものって何なんですかね?

村上 東スポが力を入れているスポーツ()というのはさておき、“ストーリー性”ですね。アングルなんですよ。野球も競馬もプロレスも。1つの勝負の瞬間が面白いというよりも、そこに至るまでのストーリーを知ったうえで見ると何倍も楽しめます。

深田 あ~なるほど。

長崎周成 独占インタビュー

名前長崎 周成
ながさきしゅうせい
出身地兵庫県神戸市東灘区出身
生年月日 1991年6月30日
主な担当番組– フワちゃんTV
– アオハルTV
– ZIP!
– サムライバスターズ
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

100円のラジオを買い、
たまたま聞こえてきた「くりぃむしちゅーのANN」を聞いて。

Q:人生で1番好きだったテレビ

あらびき団、麒麟の部屋、千鳥のぼっけぇTV、横丁へよ〜こちょ、シャバダバの空に、せやねん、トリビアの泉、学校へ行こう、ガキの使い、働くおっさん劇場、全然1番が決め切れません。


深田 アンケートに書いている「100円のラジオを買った」っていうのはいつのお話ですか?

長崎 中学2年の時ですね。ある時、100均で商品を見て回っていたら、ラジオが100円で売っているのに気づいたんですよ。その時の僕のお小遣いが月300円だったんですけど、ラジオとイヤホンと電池の3つを300円で買いまして。早速その日の夜にラジオを聴いてみたんです。そしたらたまま聞こえてきたのが、くりぃむしちゅーさんのオールナイトニッポンだったんです。

 ほぉ。

長崎 親に隠れて布団の中でこっそりゲラゲラ笑ってました。録音して登下校中、何度も何度も繰り返し聴いて。全159回を10周以上聴いてお気に入り回のオープニングトークは自然と口ずさんでいる時もありました(笑)。それでずっと聴いているうちに横で笑っている人がいることに気づいて、それが放送作家の方だったんですね。初めて放送作家という存在を知りました。

深田 僕はそんなにラジオっ子では無いので知らなかったんですけど、ラジオで放送作家の存在を知るって、けっこうあるあるみたいですね。

長崎 きっかけとしては放送作家あるあるなのかもしれませんね。その後、テレビにも放送作家がいるということを知って、漠然と僕も「面白いモノを作る人間になりたい」と思うようになりました。最初から放送作家になりたいと思ったというより、出演者なのか裏方なのかわからないですがとにかく面白いモノを作りたいと思った感じです。

深田 学生時代はコンビを組んで漫才をやってたんですよね?

長崎 はい、なので高校生の時にまず出る側からやってみました。その時の相方はナミダバシの太朗という名前で今は吉本の芸人で頑張ってます。大学の時も別のコンビを組んでいて、テレビ朝日の「学生HEROS!」という番組にも学生芸人として出演させてもらいました。大学の頃、霜降り明星と合同ライブをやっていた時期もありました。

深田 へぇ~、そうなんですね。今から10年くらい前ですよね?霜降り明星はその頃から面白かったですか?

長崎 面白かったです。ワッハ上方という小さい演芸場だったのですが、ウケ過ぎて壁がビリビリと振動していました。

深田 あ~、やっぱりそうなんですね。大学卒業後はプロの芸人は目指さなかったんですか?

長崎 はい、好きではありましたが圧倒的に向いてなかったです。心臓が芸人ではなかったので(笑)。大学卒業後は一度、制作会社にも入ってADも経験したんですが企画を考えている時が1番楽しいと思えたので、自分は放送作家の道を選びました。それでADを辞める前から放送作家としての名刺を作って、ディレクターさんに配っていたら、同世代の日テレの局員さんが特番に呼んでくれて。それが放送作家デビューですね。

深田 ADを辞める前から放送作家の名刺作ったっていうエピソードは、やっぱバイタリティーがあるというか、頭がいい感じしますね(笑)。