名前岐部 昌幸
きべ まさゆき
出身地群馬県太田市
生年月日1977年10月9日
主な担当番組– ゲームセンターCX
– 勇者ああああ
–  シューイチ
など

アンケートへの回答をもとにインタビュー取材

Q:放送作家になったきっかけは?

・(動機)フォークダンスDE成子坂さん
単独ライブ「自縛」(VHS)を見て衝撃を受けて、
どういうカタチでもいいので、お笑いの世界に携わりたいと思いました。

・(きっかけ)ワタナベエンターテインメント オーディション
放送作家のなり方がわからず、芸人オーディションを受けました。それが縁で事務所ライブをお手伝いするように。

Q:人生で1番好きだったテレビ番組は?

クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!


深田 岐部さんがお笑い好きというイメージはなかったので「お笑いの世界に携わりたい」というのが少し意外でした。

岐部 子どもの頃からドリフが好きで特に『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が大好きでした。そして、大学生のときにボキャブラブームになり、いろんな若手芸人さんを知ったわけですが、群馬在住だったので気軽に劇場に通えませんでした。そんななか、TSUTAYAでボキャブラに出演していたフォークダンスDE成子坂さんの単独ライブのVHSを見つけたんです。当時は芸人さんのネタのビデオはほとんどなかったので、珍しいなと思いつつ借りて。もともと「GAHAHAキング」で成子坂さんのネタは見たことあったのですが、その単独ライブの内容に度肝を抜かれました。生意気な言い方になりますが、見たことのないお笑いのパターンがたくさん詰まっていて、とにかく斬新だったんです。

深田 僕はボキャブラは見てなかったんですけどフォークダンスDE成子坂は伝説のお笑いコンビですよね。

岐部 あえて「医者」みたいなベタな設定を選んで、これまでの医者コントにない笑いを展開したり。「全米が泣いた」的な映画予告の笑いもこの中でやっていました。この単独以外でも、あるお笑いトーナメントの2回戦で1回戦のネタを倍速でやったり、よくわからない対決が急に始まって「うわ~!俺の負けや」とよくわからないうちに決着がつくネタ(有名な「芋泥棒」)のはしりだったり。桶田さんの何をしでかすかわからない雰囲気、村田さんの切れ味抜群のツッコミ、でもどこかチャーミング。そんなおふたりが存在するお笑いの世界に触れてみたい、それがこの世界を目指した動機だったと思います。

深田 ワタナベエンターテインメントのオーディションを受けたのはいつですか?

岐部 僕は群馬県前橋市にある群馬大学に通っていたんですけど、就職活動をしないまま卒業して、卒業後に半年間バイトしてお金を貯めてから上京しました。それから紆余曲折あって、オーディションを受けたのは上京してから、さらに半年後ですね。

深田 話が逸れますけど国立大学に行ってるってことは勉強できたんですね?

岐部 勉強できたというより、行かざるを得ない事情がありまして……。実家がそこそこ貧しかったんです。団地住まいだったんですが、大人になって母から聞いたら家賃が1万2千円だったそうで。しかも我が家が住んでいた1階が一番安かったみたいです(笑)。余談ですが、ウチの2階にはブラジル人の家族が住んでいて、サッカーのワールドカップの時期になるとお祭り騒ぎで騒音が凄かったのを覚えてます(笑)。日本人がワールドカップで熱狂する前から2階のドタバタ音で「あ、いまワールドカップやってるんだな~」って大会の存在を認識してました。
……話を戻して、そんな家庭環境だったので、いざ大学受験のときに「国立で実家から通える大学なら行かせてあげてもいい」と親に言われて、それってもう選択肢が群馬大学しかないんです。受かってよかったです(笑)。地方の国立大ってやはりマジメな人が多く、県内唯一の国立大なので地元企業であればそれなりに就職できる環境のなか、就職活動すらしないというのは大学内でもかなり変人に見られましたね。あと、卒業後にバイトの面接受けるときも「え? 群馬大学出てなんでウチのバイトに?」と、ヤバいやつに思われて、なかなか受からなかったですね。あくまでも20年以上前の話ですけど。

深田 上京してから紆余曲折あったというのは?

岐部 ちょっとした行き違いから、上京してすぐにバイト先の社員さんにグーで殴られて心がボッキリと折れ、「上京して一人暮らしなのに引きこもり」というなんとも燃費の悪い生活を送っていたんです。そのあたりは拙著「ゲームセンターCX 作家岐部の挑戦」に書いていますので、気になる人は立ち読みしてみてください(笑)。
3か月くらい引きこもってましたが、さすがにお金がヤバくなり、ルノアールでバイトを始めつつ、そろそろ動かなきゃなと思ってナベプロのオーディションを受けました。

深田 そのオーディションをきっかけに劇場ライブの手伝いをするようになったんですよね?

岐部 そうです。劇場で1年くらいお手伝いをしていたら、そのうちナベプロ内に番組制作部を作るという話があがりまして。所属タレントを使った番組企画を制作まで含めて自社でやる、というプロジェクトの会議に、企画書作成担当の末端作家として僕も呼んでもらえたんです。その場に放送作家の安達元一さんがいらっしゃって、安達さんのもとで日々、企画書を作るようになりました。のちに飯島愛さんMCの番組が通って、その深夜番組でテレビの放送作家としてデビューさせてもらいました。

深田 岐部さんも企画書を書きまくっていた時代があったんですね。

岐部 当時はパソコンを使いこなせる放送作家がそれほど多くなく、僕は大学でパソコンを習っていたので当時としてはかなりワードを使いこなせる方でした。今の優秀な若手作家さんの企画書とは比べ物にならないですけど、図形やワードアートを使った企画書は当時としては見栄えが良く、ウソみたいな話なんですけど、自分の作った企画書のフォーマットが出回っていた時期もありました。

深田 へぇ~、そうなんですね。そこから放送作家として食えるようになるのはどれくらいですか?

岐部 劇場を手伝ってから2年ちょっとくらいですかね。『ゲームセンターCX』が始まったぐらいからギリギリ生活できるようになったと記憶しています。

深田 岐部さんといえばゲームというイメージですけど、その話は次の項目で聞かせてもらいますね。

岐部 わかりました。